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嶋谷 徳三郎(島谷 徳三郎[1]、しまたに とくさぶろう、1867年12月2日(慶応3年11月7日[2][3]) - 1928年(昭和3年)5月20日[4])は、日本の実業家、資産家[5]、山口県多額納税者[6][7]。嶋谷汽船株式会社の創立者で社長を務めた[1][7][8][9][10]。族籍は山口県平民[1][7]。
周防国玖珂郡由宇村(現・山口県岩国市)に、廻船業を営む徳右衛門の長男として生まれる[1][2][7][8][11]。若い頃から父の下で家業を習得する[2]。
1889年、父・徳右衛門が亡くなり、徳三郎は22歳で家督を相続して家業を継承した[2][3][11]。徳三郎は1895年に、それまで保有していた和式帆船を売却して、日本郵船から中古の蒸気船「浦門丸」(元はイギリス製で土佐藩が購入)を購入する[12]。当時、由宇の廻船業者はすべて和式帆船を使い、高額な蒸気船の導入をためらっていた中で、徳三郎は親族の反対を押し切って実行した[12]。速度や運行の安定性に優れた蒸気船は大成功を収め、由宇の同業者は姿を消した[12]。
日露戦争(1904年 - 1905年)時には保有する蒸気船3隻のうち2隻が政府に徴用された[13]。この時期に「嶋谷汽船部」を名乗り、1897年からは北前船航路に参入した[13]。北前船でも利益を上げ、1911年までに所有船を増やした[14]。一方、父の代以来廻船と兼業していた投機的な米穀取引をやめ(元は米取引の一環としてその輸送を手がけていた[15])、海運業に事業を集中して、父が開いた福岡県大川町若津(現・大川市)の事務所を1900年に由宇に移転した[16]。
「嶋谷汽船部」は1917年5月に株式会社化して「嶋谷汽船株式会社」となる[17][10]。1919年には長男の武次を兵庫県須磨町(現・神戸市須磨区)に移住させ、同年7月には神戸出張所を開設した[10]。1923年7月に自身も須磨[注釈 1]に転居し、嶋谷汽船の本社も神戸市に移転した(神戸出張所は廃止)[10]。1927年の『海運興国史』(神戸栄報社)による1926年末時点所有船舶総トン数では、日本の船主で20位で、個人オーナー企業ではトップだった[18]。
一方、1918年には小野造船鉄工所(小野虎助が経営)との共同出資で笠戸島船渠を設立したが、第一次世界大戦後の景気悪化により、1923年8月に会社を解散、ドックの施設はその翌年に大阪鉄工所の所有となった[19]。
このほか、周防鉄道常務取締役[1][注釈 2]、小瀬川水力電気、東海汽船[注釈 3]各監査役[7][8]など、複数の企業で重役を務めていた。
1928年5月20日に死去した[22]。
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