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島津 長丸(しまづ ながまる、1871年10月31日〈明治4年9月18日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月1日[1][2])は、明治から大正にかけての華族(男爵)。島津氏一門・宮之城家16代当主。島津久治の長男。貴族院議員を務めた。
1871年(明治4年)、宮之城家第15代当主島津久治(島津図書)の長男として誕生した。生後間もない1872年(明治5年)1月に父を失う。1895年(明治28年)7月、鹿児島高等中学造士館予科卒業[3]。
1896年(明治29年)、鹿児島市平ノ馬場町に私立鶴嶺女学校を創立した。1897年(明治30年)10月に男爵を授けられた[1]。武徳会鹿児島支部副長、鹿児島電気軌道監査役、都市計画鹿児島地方委員会委員などを歴任。
また、1901年(明治34年)9月26日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[4]、1904年(明治37年)7月9日まで務め[5]、さらに1916年(大正5年)5月6日に再び選出され[6]死去するまで在任した[5]。
妻は、久治の弟島津珍彦の娘ハル(治子)で、島津久光・千百子を祖父母に持ついとこ婚。ハルは昭和に入って宮内省に出仕し、皇后宮女官長を務めた。
『平成新修旧華族家系大成』によれば1男5女。家督は長男の島津忠丸(ただまる、1913年生まれ)が継いだ。長女の廣子(1897年生まれ)は三井高修(三井小石川家)に、二女の泰子(1899年生まれ)は二条厚基公爵(二条基弘の子)にそれぞれ嫁している[1]。ほかに1902年生まれの娘・澄子があり、谷正之に嫁ぐ[11]。
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