小林 俊三(こばやし しゅんぞう、1888年(明治21年)6月3日 - 1982年(昭和57年)6月3日)は、日本の昭和時代の最高裁判所判事、弁護士(第二東京弁護士会所属)。
来歴
東京出身。1914年(大正3年)に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業後、いったん会社員になったが、1年10ヶ月で退社して弁護士となる[1]。1941年(昭和16年)、ゾルゲ事件の尾崎秀実の官選弁護人を務めた[1]。太平洋戦争における日本の降伏に伴う極東国際軍事裁判(東京裁判)では松岡洋右の弁護人を務めた[2]。「検事、弁護士をした後に裁判官になるのが最も望ましい」と主張する法曹一元化論者であった[2]。
1947年(昭和22年)10月に東京高等裁判所長官に就任[2]。1951年(昭和26年)10月に最高裁判所判事に就任[2]。在任中は政令325号事件、農地改革事件、三鷹事件、帝銀事件、チャタレー事件などに関与した[2]。
1958年(昭和33年)6月 定年退官[3]。その後2年間、日本法律家協会会長を務めた[3]。
健康に恵まれ、90歳を過ぎても、東京都世田谷区の自宅から電車を乗り継いで霞が関まで来ていた[3]。
1982年(昭和57年)6月3日に東京慈恵会医科大学附属病院で、肺炎のため94歳で死去[3]。
戦前、短歌結社「春草会」へ共に参加していた竹久夢二(1884年~1834年)と親交があり、夢二から贈られた日本画2点『白桃や』『南枝王春』が遺族により2024年(令和6年)6月に竹久夢二美術館に寄託された[4]。
著書
- 『私の会った明治の名法曹物語』日本評論社、1973年
脚注
参考文献
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