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小倉碑文(こくらひぶん)は、宮本武蔵の養子の宮本伊織が武蔵の菩提を弔うために、承応3年(1654年)に豊前国小倉藩手向山山頂に建立した、自然石に刻まれた顕彰碑文。通称「小倉碑」。
顕彰碑は、現在の福岡県北九州市小倉北区赤坂、門司区との境にある手向山の山頂にある。石碑は高さ4.5mの自然の巨石で、頂部に武蔵の遺言として「天仰實相圓満兵法逝去不絶」十二文字の大文字、その下一杯に、漢文で千百余文字の顕彰文が刻まれている。
『武州伝来記』『兵法先師伝記』『武公伝』『二天記』など武蔵の伝記に記された巌流島の決闘、吉岡一門との決闘をはじめとする武蔵の主要な伝承は、この小倉碑文を源としており、『五輪書』と共に武蔵を知る基本的史料となっている。
承応3年(1654年)4月19日、武蔵の養子である豊前国小倉藩(小笠原藩)筆頭家老・宮本伊織貞次が、父武蔵を弔い、その事績を顕彰するために建立した。『宮本家由緒書』によれば手向山は墓地として小笠原忠真より拝領したものである。武蔵が肥後国熊本藩の客分の身分のまま、千葉城の自邸で死去して9年目の事であった。
以来350年間、ずっと豊前有数の名所として全国に知られ、歌川広重の『諸国名所百景』にも「宮本墓」として旅人の見物する様子が描かれている。遠景には巌流島も見えている。
「小倉碑文」は江戸時代より諸書にその全文が掲載され、あるいは部分引用が為されているが、古い資料に見られる重要な誤りがそのまま孫引きされていることも多く見られるので注意を要する。 特に『二天記』記載文には重要な誤りが二箇所ある。
最初に「小倉碑文」を写して全文公開したのはおそらく『本朝武芸小伝』(1716年)であろう。しかし確認するとそこには春山撰文の文字はない。その次に古いのが『武州伝来記』(1727年)でこれにもない。春山撰文説の源は肥後の『武公伝』(1755年)であった。『二天記』がそれを原典として引き継いだので、全国に広まったようである。『二天記』では武蔵の葬儀で引導を渡したのも春山となっているが、武蔵の葬儀を差配した熊本藩家老長岡監物と宮本伊織の往復書簡によれば、葬儀を取り仕切ったのは泰勝院開山大淵和尚である。泰勝寺2世の春山と武蔵の交流を示す史料は無く、宮本家にも春山に撰文を依頼した伝承は無い。
『二天記』を写したものにはもう一つ特徴的な誤りも写しているのですぐに判定できる。それは碑文冒頭大文字入刻の戒名が「新免武蔵藤原玄信二天道樂居士」となっている。原文は「玄信二天居士」で「藤原」も「道樂」もないのである。「二天道樂」の居士名は福田正秀の研究[1]で武蔵が事実使用していた事がわかっている。「二天」は肥後入国時から使用していたのが自筆書状で証明されるので、その以前小倉時代から使用していたと考えられるが、「二天道樂」は肥後熊本のみで使用したものである。戦災で焼けて今は写真でしか見ることが出来ないが、熊本の泰巌寺旧蔵(元は鍛治屋町の養寿院蔵)の武蔵の位牌は「新免武藏藤原玄信二天道樂先生之神儀」となっている。この事を紹介しているのが『武公伝』である。このことから、この位牌を見た豊田正剛が碑文の写しに書き加えたものと判断される。
(読み下し)
- 天仰実相円満 兵法逝去不絶
- 時に、承応三年四月十九日、孝子某、謹で建焉。
- 正保二年乙酉暦五月十九日、肥後国熊本に於て卒す。
- 兵法天下無双 播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士の碑
- 機に臨み変に応ずるは、良将の達道なり。武を講じ、兵を習ふは軍旅の用事なり。心を文武の門に遊ばせ、手を兵術の場に舞はせて、名誉を逞しくする人は、其れ誰ぞや。播州の英産、赤松の末葉、新免の後裔、武蔵玄信、二天と号す。
- 想ふに夫れ、天資曠達、細行に拘らず、蓋し斯れ其の人か。二刀兵法の元祖と為るなり。
- 父、新免無二と号し、十手の家を為す。武蔵、家業を受け、朝讃暮研す。思惟考索して、十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきを灼知す。然りと雖も、十手は常用の器に非ず、二刀は是、腰間の具なり。乃ち二刀を以て十手の理と為せば、其の徳違ふこと無し。故に十手を改めて二刀の家を為す。
- 誠に武剣の精選なり。或ひは真剣を飛ばし、或ひは木戟を投げ、北る者、走る者、逃避する能はず。其の勢、恰も強弩を発するが如し。百発百中、養由も斯れに踰ゆる無し。
- 夫れ惟、兵術を手に得、勇功を身に彰す。方に年十三にして始む。播州に到り、新当流、有馬喜兵衛なる者と進んで雌雄を決し、忽ち勝利を得たり。
- 十六歳春、但馬国に至る。大力量の兵術の人、秋山と名のる者有り。又、反掌の間に勝負を決し、其の人を打ち殺す。芳声街に満つ。
- 後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り。雌雄を決せんことを請ふ。彼の家の嗣、清十郎、洛外蓮台野に於いて竜虎の威を争ひ、勝敗を決すと雖も、木刃の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。予て、一撃の諾有るに依り、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乗せ去り、薬治、温湯し、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ。
- 然る後、吉岡伝七郎、又、洛外に出で、雌雄を決す。伝七、五尺余の木刃を袖にして来る。武蔵、其の機に臨んで彼の木刃を奪ひ、之を撃ちて地に伏す。立ち所に吉岡死す。
- 門生、冤を含み、密かに語りて云く、兵術の妙を以ては、敵対すべき所に非ずと。籌を帷幄に運らして、吉岡亦七郎、事を兵術に寄せ、洛外下り松辺に会す。彼の門生数百人、兵仗弓箭を以て、忽ち之を害せんと欲す。武蔵、平日、先を知るの才有り。非義の働きを察して、窃かに吾が門生に謂て云く、汝等、傍人と為りて速やかに退け。縦ひ、怨敵、群を成し、隊を成すとも、吾に於いて之を視るに、浮雲の如し。何の恐ること之有るや。衆の敵を散ずるや、走狗の猛獣を追ふに似たり。威を震ひて帰る。洛陽の人皆、之を感嘆す。勇勢知謀、一人を以て万人を敵する者は、実に兵家の妙法なり。
- 是より先、吉岡は代々公方の師範を為し、扶桑第一の兵術者の号有り。霊陽院義昭公の時に当たり、新免無二を召して、吉岡と兵術をして勝負を決せしむ。三度を以て限り、吉岡、一度利を得、新免、両度勝ちを決す。是に於いて新免無二をして日下無双兵法術者の号を賜ふ。故に武蔵、洛陽に到り、吉岡と数度の勝負を決し、遂に吉岡兵法の家泯び絶ゆ。
- 爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。
- 凡そ、十三より壮年迄、兵術勝負六十余場、一つも勝たざる無し。且つ定めて云く、敵の眉八字の間を打たざれば勝ちを取らずと。毎に其の的を違はず。古より兵術の雌雄を決する人、其の数を算するに幾千万かを知らず。然りと雖も、夷洛に於いて英雄豪傑の前に向かひ人を打ち殺す。今古其の名を知らず。武蔵一人に属するのみ。兵術の威名、四夷に遍き、其の誉れや、古老の口に絶えず、今人の肝に銘じる所なり。誠に奇なるかな、妙なるかな。力量旱雄、尤も他に異なれり。
— 福田正秀『宮本武蔵研究論文集』「資料編」pp.206-207より、読み下しのみ引用
- 武蔵、常に言う、兵術を手に熟し、心に得て、一毫も私無ければ、則ち、戦場に於て恐れる事もなく、大軍を領する事も、又、国を治る事も、豈に難からんやと。
- 豊臣太閤の嬖臣、石田治部少輔謀叛の時、或ひは、摂州大阪に於いて、秀頼公兵乱の時、武蔵の勇功佳名は縦に海の口、渓の舌に有り、寧ろ説き盡し、簡略に之を記さず。
- 旃加、礼、楽、射、御、書、数の文に通ぜざる無し。況や小芸巧業をや。殆ど為して為さざる無き者か。蓋し大丈夫の一体なり。
- 肥之後州に於いて卒する時、自ら、天を仰げば実相円満之兵法逝去して絶えず、の字を書き、以て言う、遺像と為せと。故に孝子、碑を立て、以て不朽に伝へ、後人に見せしむ。嗚呼、偉なるかな。
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