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鎌倉時代末期の武将。土岐頼貞の十男。贈正四位。鎌倉幕府 六波羅探題 ウィキペディアから
土岐 頼兼(とき よりかね)は、鎌倉時代末期の武将。土岐頼貞の十男。
元亨4年9月19日(1324年10月7日)一族の頼員(舟木頼春)、多治見国長、足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)らとともに後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加し、日野資朝と俊基の招聘に応じて入京した。
『太平記』巻一「頼員回忠事」によれば、頼兼らは三条堀川の宿所で、公家の尹師賢、四条隆資、洞院実世、平成輔、伊達優雅、法眼玄基も交えて無礼講による終夜の酒に酔っていたが、頼員がうかつにその計画を六波羅探題の奉行の斎藤利行の娘である妻に漏らしてしまったことから事前に露見し、六波羅探題の配下である小串範行らによって夜襲を受けた。
頼兼はこの急襲の声に驚いて慌て騒いで、無防備であったが、共に寝ていた物馴れた遊女の機転により鎧・兜を身につけ、寝入っている者を起こすことができたという。頼兼は国長とともに少数の手勢を率いて六波羅の山本時綱の軍勢と奮戦したが、最終的には館の裏手を突破されたことから観念し、自害して果てた(正中の変)。
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