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土屋 知貞(つちや ともさだ)は、江戸時代前期の旗本。豊臣秀吉に関する聞き書き集『太閤素生記』や、大坂の陣の記録『土屋知貞私記』[注釈 3]の著者として知られる。
土屋家は、もともと甲斐武田家に仕えた一族である。知貞の祖父・土屋昌遠は武田信虎に仕え、天文10年(1541年)に信虎が甲斐を追放されたあとも駿河・京都へと同道した人物である[2]。昌遠は菅沼氏の娘を娶り、天文10年(1541年)に[注釈 1]一子・土屋
土屋知貞は、文禄3年(1594年)に円都の子として生まれた。母は朝比奈信置の娘[2]。『寛永諸家系図伝』(以下『寛永系図』)には「生国山城」とある[4]。
慶長17年(1612年)に徳川家康に御目見した[2][注釈 4]。家康は知貞の一族との縁が深いこと[注釈 5]を語って召し出し、徳川秀忠付きの小姓組番士となった[1]。二度の大坂の陣に従軍し、夏の陣では天王寺口で奮戦して首級1を挙げ、戦後に上総国望陀郡・周准郡内で500石の知行地を与えられた[1]。元和2年(1616年)には徳川家光付きとなり、寛永9年(1632年)と寛永11年(1634年)の家光の2度の上洛に供奉している[1]。この間、寛永10年(1633年)には武蔵国幡羅郡内で200石を加増された[1]。
寛永14年(1637年)には関東諸国の作毛検視を[1]、寛永18年(1641年)には信濃松本藩主堀田正盛に預けられていた植村直宗[注釈 6]が死したためその検視を[1][7]、それぞれ命じられている。寛永20年(1643年)には朝鮮通信使の登城に際して臨時に目付の業務を行った[1]。正保2年(1645年)6月28日に船手頭となり、同年12月晦日に布衣を許された[1]。万治元年(1658年)5月4日、徳川家綱が初めて「御船」に乗船した際、大いに喜んだ家綱は船手頭の一人である知貞にも時服3領を与えた[1][注釈 7]。
延宝2年(1674年)6月29日、致仕[1]。延宝4年(1676年)7月8日没、享年83[1]。養子の土屋知義(8000石の大身旗本・松平勝義の三男[注釈 8])が跡を継いだ[1]。
『太閤素生記』は、知貞が「養母」とその母や、母方の祖母をはじめとする人々からの聞いた話をもとに、豊臣秀吉の出生から死没までの事績を描こうとした著作である。『太閤素生記』の巻末には、知貞が話を聞いたことのある相手として、前記3人の他に父の円都(北条家旧臣で小田原籠城を経験している)、北条家旧臣[注釈 9]、豊臣家に仕えた武将や近習[注釈 10]、豊臣家の奥向きに仕えた女性[注釈 11]などが記されている[10]、
知貞の「養母」は、織田家家臣(織田信長の御弓衆)で中中村の代官であった稲熊助右衛門の孫娘である。「養母」の母(稲熊助右衛門の娘)が秀吉と同世代であった。このことから「養母」とその母は、秀吉が中中村の生まれであったことやその家族関係について、常々語っていたという[11]。
この「養母」は秀吉正妻の高台院とも交流があり、晩年の高台院が知貞養母を「召し連れ」て様々な物語をする関係であったという[12]。
知貞の母方祖母は、浜松城主飯尾豊前守連龍の娘(幼名はキサ)で、朝比奈駿河守信置に嫁いだ女性である[13][注釈 12]。松下之綱(『太閤素生記』では浜松に近い「久能」の城主とする[注釈 13])が、「猿」と呼ばれていた異形の持ち主であった10代後半の秀吉を家臣にした際、之綱は秀吉を浜松に連れて行き、飯尾連龍に引き合わせた。『太閤素生記』にはこの際、「豊前が子共幼き娘など出て是を見る」とある[15]。秀吉が松下家に仕えた3年間についての話はキサが語ったものである[16]。キサは元和年間まで長命を保った[16]。
『太閤素生記』には秀吉との直接関係がない事柄ながら、知貞の曾祖母にあたる「豊前女房キサが母」(現代では一般に「お田鶴の方」の名で語られる人物)が「名誉の強女」であり、連龍が今川氏真に誅殺されたあと「駿州江尻の屋敷」に立て籠って戦ったことについて述べられている[17]。
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