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仙台師管区部隊(せんだいしかんくぶたい)は、第二次世界大戦末期の1945年4月に編成され、11月まであった大日本帝国陸軍の師管区部隊の一つである。日本の東北地方南部にあたる仙台師管区の非作戦部隊・官衙・地域防衛組織をまとめ、東北軍管区部隊に属した。兵団文字符は仙[1]。
師管区は1945年4月に師管を改称して設けられ、師管区部隊は従来の留守師団を転換して編成された。師管区部隊は、留守師団を構成した司令部・補充隊のほか、管区内の様々な非戦闘部隊・官衙もまとめられ、全体としてはかなり雑多な集まりである。仙台師管区では、留守第2師団司令部が仙台師管区司令部に改称した[2]。4月1日に移行する予定で[2]、司令官以下の人事も1日付で発令されたが[3]、編成は4月9日になった[4]。補充隊の中で、歩兵第3補充隊だけは、1日遅れて4月10日の発足となった[4]。
定員約8千人の補充隊は兵士を教育・訓練し、その兵士を在来の部隊や新編成の部隊に送りこむ組織である。師管区司令部は8つの師団司令部への補充担任となり、各種補充隊は歩兵団以下の司令部と多数の部隊の補充担任となった[5]。
陸軍病院では、仙台第一陸軍病院が東北軍管区司令部の直轄で、山形陸軍病院と若松陸軍病院が仙台師管区部隊に属した[6]。終戦時までに山形陸軍病院は東北軍管区司令部の直属となり、仙台第三陸軍病院が仙台師管区部隊の下に入った[7]。
発足時の司令部と補充隊は仙台に集中しており、歩兵第2補充隊が若松、歩兵第3補充隊が山形にあるだけだった[4]。7月10日に仙台は大規模な空襲を受け、市街が壊滅した(仙台空襲)。8月2日に部隊は仙台を引き払い、主に山形県に分散移転した[4]。司令部と通信補充隊は山形、歩兵第1補充隊は新庄、砲兵補充隊は尾花沢、工兵補充隊と輜重兵補充隊は米沢である[4]。歩兵第2と第3補充隊はこのとき閉隊になった[4]。
8月15日にポツダム宣言を受諾し、戦争が終わると、陸軍は解体されることになり、各部隊は次々に復員(解散)した。しかし、師管区部隊は復員業務と治安維持のためにしばらく存置された。
砲兵、工兵の補充隊は9月5日に、輜重兵補充隊は9月13日に復員したが、歩兵と通信の補充隊はその後になった[8]。第72師団など先に復員した他部隊の人員の一部は、仙台師管区部隊に転属して勤務を続けた[9]。
『東北軍管区編成人員表』による定員[11]。軍人と軍属は分けて数えた。かっこ内の「東北122部隊」等は通称号。地名は当初の配置と、8月2日の移転先(あるいは廃止)である[4]。司令部と補充隊をあわせて約8千人、その他約2万1千人をあわせ、計約3万人になる。その他の中でもっとも多いのは定員1万8千人の地区特設警備隊だが、実数は異なる可能性が高い。
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