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日本の浮世絵師 ウィキペディアから
中井 芳滝(なかい よしたき、天保12年2月22日〈1841年4月13日〉 - 明治32年〈1899年〉6月28日)とは、江戸時代末期から明治時代の大坂の浮世絵師。上方役者絵において五粽亭広貞とともに双璧といわれた。一養斎芳滝(いちようさいよしたき)、歌川芳滝(うたがわよしたき)などとしても知られる。
歌川芳梅の門人。大坂の人。姓は中井、一時に笹木、名は恒次郎。一養斎、一養亭、養水、寿栄堂、里の家、豊玉、糊家、阪田舎居などと号す。鰻谷に生まれ、後に南本町2丁目に住んでいる。嘉永2年(1852年)12歳で芳梅に入門。安政2年(1855年)15歳で独立し中井芳滝を名乗る。文久(1861年 - 1864年)年間から明治(1868年 - 1912年)にかけて活躍しており、芝居看板、中判の役者絵をはじめ、摺物や風景画、美人画を描き、上方最後の浮世絵師と称された。他に徳川慶喜大坂退去後の「城中大火図」や、明治初期には『大阪錦絵新聞』の新聞錦絵などがある。また、堺の観光地を描いた堺名所案内には当時としては珍しいローマ字を地名に用いた。
明治7、8 年頃父の祖先にあたる笹木家を継いだが、後に弟で同じく絵師の笹木芳光に譲り、元の中井姓に戻った。明治13年(1880年)に京都へ移住後は、役者絵版画を殆ど止め、主に婦人風俗などの絹本画を描いた。明治15年(1882年)10月の第1回内国絵画共進会には本名である中井恒次郎として出品した「婦人裁縫図」、「群老遊戯図」が浮世絵派として唯一の銅牌を受けた。この受賞が契機となってか、翌16年に京都府画学校の教員として招かれているが、これを辞めた時期は判然としない[1]。明治17年(1884年)4月の第2回内国絵画共進会においても「京都婦人」、「学校生徒昇校図」が同様に銅章を受けている。この時には浮世絵派の絵師として他に橋本周延、岡本春貞も銅章を受けている。
明治18年(1885年)堺甲斐町に移住、肉筆画のほか新聞・雑誌の挿絵や連載物の他に、シリーズで発刊されていた刷物風俗画作品(『大阪名所』)を描いた。同じ街に住む大阪麦酒会社(現アサヒビール)社長・鳥井駒吉とは関係が深かったらしく、同社の引き札やチラシ・ポスターをしばしば手がけた。同社で宣伝のための都々逸を募集した際には、重役の鳥井や宅徳平、専門作家と共に秀歌を選んだという。更に初期のアサヒビールの波に朝日をあしらったラベルは芳瀧のデザインで、没後の明治36年(1903年)全国意匠工芸博覧会で一等金牌を受賞している[2]。明治25年(1892年)に後の郷土玩具画家である川崎巨泉が弟子入りし、後に娘濱子と結婚し養子となった。享年59。戒名は楽邦軒静芳居士。墓は、堺区南旅籠町の南宗寺。
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