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並木 一路(なみき いちろ、1910年5月13日[1] - 没年不詳)は、昭和・平成期の漫才師、俳優[2][3][4]。本名は松村 興優(まつむら こうゆう)。東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)出身。
1910年5月13日、東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)に生まれる。
物心がつく前からドサ回り劇団に所属して各地を巡業。旅回わり劇団を転々としたのち1936年、栗島すみ子劇団に入り、栗島の父である栗島狭衣に師事[2]。その後、古川隆一名義で浅草の梅沢昇一座、不二祥子一座などの剣劇の舞台に立つ。
1938年、漫才に転向し、大山キリン名義で栗島劇団にいた仲間と大山キリン・ビールを結成し、兵隊漫才で活躍する。1940年、並木一路と改名して内海突破とコンビを結成[2]してヒットし、「西にエンタツ・アチャコあり、東に一路・突破あり」とうたわれた。芸名は「敵陣を一路突破する」に由来している。1941年、コンビで東宝演劇部の専属俳優となる。1944年、入隊し朝鮮・龍山で終戦を迎えた。
戦後はラジオや映画を中心にコンビで人気を持続するが、1949年3月、内海がNHKラジオ『陽気な喫茶店』に出演したのをきっかけでコンビ解消。1950年、宮田洋容とコンビを結成して、人気を博す。しかし1954年以降は単独で司会者や漫談家として活躍[2]。1965年、内海と再びコンビを復活させたが長くは続かなかった。
その後再びコンビを結成することなく、内海は1968年6月8日に53歳で死去。一方、一路は平成まで司会者や漫談家として活躍していた[4]というが、以後の消息は不明である。
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