Loading AI tools
下野国に所在した藩 ウィキペディアから
下野富田藩(しもつけとみたはん)は、江戸時代前期の短期間、下野国都賀郡富田(現在の栃木県栃木市大平町富田付近)を居所とした藩[1]。1613年に北条氏重が1万石で入封したが、1619年に転出したために廃藩となった。
慶長18年(1613年)、下総岩富藩1万石の領主であった北条氏重が、下野富田に移封されたことによって立藩した[2]。氏重は、小田原北条氏一族(玉縄北条氏)の北条氏勝の養嗣子であるが、実父母は保科正直と多劫姫(徳川家康の異父妹)であり[2]、徳川家康の甥にあたる。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では榊原康勝の麾下に入り、和泉国岸和田城番を命じられると近郷から人質を取り、地域の安定を維持した[2]。慶長20年/元和元年の夏の陣では「橋本海道」(河内国長野と紀伊国橋本を結ぶ高野街道)の守備に当たり、敵兵の往来を阻止した[2]。
元和2年(1616年)には日光東照宮の普請役[2]、元和4年(1618年)から5年(1619年)にかけては伏見城番を務めた[2]。
室町時代の応永年間(1394年 - 1428年)、「富田郷」と呼ばれる郷名が登場し、この頃には小山氏の支配下にあったことが文書から判明する[3]。
現在の栃木市立大平西小学校(栃木市大平町富田)付近には富田城があった。現地掲示板によれば[注釈 2]、一説に嘉吉元年(1441年)、皆川氏一族の富田成忠が富田城を築き、成忠(左衛門尉)―忠宗(駿河守)―秀利(玄蕃頭)―信吉(左近)と城主が受け継がれた。ただし『小山系図』によれば、富田秀利は小山氏一族の藤井氏出身で、富田城に住して富田を称した人物という[8][9]。弘治3年(1557年)、富田信吉の時に富田城は皆川俊宗に攻め落とされ、皆川氏の属城となる。その後、徳川家康が関東入部すると、富田秀重(宮内大夫)が城主として入り、慶長2年(1597年)まで城主の座にあった。北条氏重はその後に城主となったという。ただし現地掲示板によれば、氏重が城主であった時期を慶長6年(1601年)から元和3年(1617年)までとする。
江戸時代、富田村は日光例幣使街道の宿場町(富田宿)として成長する[10]。元和元年(1615年)に徳川家康を日光に埋葬するための霊柩が富田村を通過したが、この時点ですでに宿駅としての機能が備わっていた[10]。
『角川日本地名大辞典』は富田村の領主について「慶長10年榎本藩領、元和元年皆川藩領[注釈 3]、同4年遠江横須賀藩領[注釈 4]」としており[10]、富田藩北条氏による領有を記していない。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.