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ヴァレリー・アレクセーエヴィチ・レガソフ(レガーソフ、ワレリー・レガソフ[1][2][3][4]、ロシア語: Вале́рий Алексе́евич Лега́сов、ラテン文字転写の例:Valeriy Alekseyevich Legasov、1936年9月1日 - 1988年4月27日)は、ソビエト連邦の化学者、ソビエト連邦科学アカデミー会員。チェルノブイリ原子力発電所事故の調査委員会責任者を務めた。
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1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所事故の直後、ソ連政府の対策メンバーに選ばれて現地に急行した。レガソフは、「今対応をとらないと、放射能は世界に拡散する」と声高に主張、鉛や炭酸水を混ぜた砂袋を空中から投下する緊急対策を認めさせ収束に寄与した[6]。
同年7月3日、事故対応のため極秘で開かれたソ連共産党中央委員会政治局会議に出席、ゴルバチョフ書記長の質問に答えた[7]。
ソ連政府の事故調査委員会の中心人物であったレガソフは、隠さずに情報公開する姿勢が政府の反感を呼び、さまざまな問題に悩まされた。その間も放射線は彼の身体をむしばんでいった。
レガソフは、事故2周年にあたる1988年4月26日に、チェルノブイリ事故発生直後から災害防止の活動ぶりや住民避難を生々しく記述した告発メモをソ連共産党機関紙 「プラウダ」 の科学担当記者ウラジーミル・グーバレフ宛てに遺した。これはソ連の最高機密であった事故の真相をはじめ以下のような内容を含むものであった。
翌4月27日、レガソフは自宅で遺体で発見され、1本の録音テープが残されていた。現場の状況により自殺と断定された。事故後に唱え続けた原子炉の安全対策が受け入れられずに絶望したなど、死の理由には諸説がある。
さきの告発文は同年5月20日付のプラウダで公表された。
1996年9月20日、エリツィン大統領はレガソフにロシア連邦英雄の称号を授与した。
イギリスBBCは、残された録音テープをもとにドキュメンタリー番組『チェルノブイリ原発事故』"Surviving Disaster: Chernobyl Nuclear Disaster" を制作、2006年1月24日に放映した。
ただし、上記作品においてBBCはイギリス国営放送という立場から、レガソフが主に当時のソ連指導者層の対応を批判しているとの主観で描かれているが、レガソフの分析や推論を拒んだのは、西側の原子力導入各国も(多少の例外はあるものの)同じことである。
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