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本項・「ルーシ・ビザンツ戦争(ルーシ・ビザンツせんそう)」は、ルーシ(キエフ大公国)と東ローマ帝国の間で展開された、9世紀から11世紀の諸戦闘・戦争をまとめたものである。なお、862年の東ローマ帝国との戦争は、ヴァイキング(ノルマン人)主導で行われた[1][2]。
907年、オレグはルーシ人を率いてコンスタンティノープルを襲撃した。この戦いはルーシ側の勝利に終わり、東ローマ帝国と有利な平和条約を結び、戦利品を伴ってキエフに帰還した。
イーゴリ1世は941年に、ヴァイキング(ヴァリャーグ)やスラヴ人兵士を引き連れて黒海沿岸の都市やコンスタンティノープル周辺を掠奪した。だがルーシ艦隊は東ローマ海軍に敗北し、戦利品を捨てて敗走した。
東ローマ帝国の長年の敵国であったブルガリアの衰退を見たニケフォロス2世フォカスは、キエフ大公スヴャトスラフに多額の報償を与え、ブルガリア攻撃を乞うた。スヴャトスラフは東ローマの要請にこたえて967年に、ブルガリアに攻撃を開始し、その年の内にブルガリア軍を壊滅させてしまった。だがスヴャトスラフは占領した土地の引き渡しを拒否し、本拠地を、キエフから占領していたペレヤスラヴェツに移そうとしたため東ローマ側に警戒心と反感を持たれてしまった。 969年の夏、スヴャトスラフはブルガリア全土を征服した。そこでスヴャトスラフはニケフォロス2世フォカスを殺害して新たに皇帝となったヨハネス1世ツィミスケスからルーシの地に引き上げるようにと勧告を受けたが、これを黙殺し、逆に東ローマ領トラキアに侵攻した。だがスヴャトスラフは東ローマ軍に敗北し、二度とブルガリアに足を踏み入れないと約束させられてしまった。
ルーシ人の商人がクリミアでギリシャ人に殺される事件が起こった。ヤロスラフは東ローマ側に損害賠償を求めたが、訴えは拒否された。この事件を口実にして、ヤロスラフは配下の艦隊にコンスタンティノープルを襲わせたが、ルーシ艦隊はギリシャ火炎を装備した東ローマ海軍に敗れてしまい。賠償金を得ることもできず、退却した。 この戦い以降、キエフルーシと東ローマ側との間に大きな戦いが行われる事はなかった。
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