ライシーアム劇場 (4番街)
米国ニューヨーク市マンハッタン区の4番街にあった劇場 ウィキペディアから
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ライシーアム劇場(ライシーアムげきじょう、Lyceum Theatre)は、ニューヨーク市マンハッタン区の4番街(後のパーク街南)、23丁目と24丁目の間にあった劇場。1885年に竣工し、1902年まで運営されたが、メトロポリタン生命保険会社タワーの建設に伴って解体された。これに代わって新しいライシーアム劇場が45丁目に建設された。旧ライシーアム劇場が運営されていた期間のほとんどにわたって、ダニエル・フローマンのライシーアム劇場専属劇団 (Daniel Frohman's Lyceum Theatre Stock Company) がここを拠点とし、当時の重要な演劇が上演され、俳優たちが数多く舞台に上がった。
この建物の、3層から成るオーディトリアム(観客席の空間)は、高さ75フィート (23 m)、幅48.5フィート (14.8 m)あり、727席が設けられ、その内訳はボックス席88、一階前部席 (parquet) 344、二階正面席 (dress circle) 172、ひな壇式桟敷 (balcony) 123であった。この劇場は、電灯を用いた最初の劇場ではなかったが、トーマス・エジソン自身がその設計施工に関わったとされる全面的に電灯だけで照明をまかなった最初の劇場であり、内装の設計はルイス・カムフォート・ティファニーが手がけた。しかし、新機軸として導入された新しい技術の中には、長続きしなかったものもあり、最初のシーズンには、オーケストラが「自動エレベーター車 (automatic elevator car)」によってフライ・ギャラリー(fly gallery、舞台脇の高い位置にある足場)に上がり、そこからプロセニアム越しに上演中に演奏を流すという趣向があったが、2年目からはこの「車」は撤去された。入場券は、開場当初は1ドルから2ドル50セントであった[1][2]。
俳優、劇作家で、舞台技術のイノベーターでもあったスティール・マッカイと、プロデューサーのグスタヴ・フローマンが、ライシーアム演劇学校 (the Lyceum School of Acting) の拠点としてこの劇場を建設し、フランクリン・H・サージャント (Franklin H. Sargent) とともに運営することを企てた。この学校は、程なくしてニューヨークム演劇学校 (the New York School of Acting) となり、次いで1888年にアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツ (AADA) となった[3][4]。サージャントはすぐにこの事業を離れ、その後の半年ほどの間にマッカイとフローマンは、ティファニーら債権者たちへの支払いのために、自分たちの持分を売却処分せざるを得なくなった[5]。やがて、女優ヘレン・ドーブレイが支配人となり、彼女はアメリカ合衆国における最も初期の女性劇場経営者のひとりとなった。グスタヴの兄でインプレサリオ(興行主)であったダニエル・フローマンが、3シーズン目のはじめから経営を引き継ぎ、劇場が解体された1902年まで経営者の座に留まり、その後、45丁目に新たなライシーアム劇場を開場した[6]。
ダニエル・フローマンは、劇場の専属劇団としてライシーアム劇場専属劇団を運営し、概ね同じメンバーの劇団が、各シーズンに異なる演目を上演していた。フローマンは「現代劇 (modern plays)」を数多く上演紹介しようと取り組んでいた。実際に上演された中には、古めかしいメロドラマ形式のものも、より新しい、映画時代の到来直前の時期に広まっていた、自然主義や現実主義の形式によるものもあった。ライシーアム劇団は、俳優たちやセット、音楽家、制作クルー、広報担当などを丸ごと地方巡業に送り出すこともしていた。それ以前は、主役級の役者たちだけが巡業に出て、各地の地元の俳優たちや音楽家たちと公演をすることがよくあり、結果として公演の芸術的な質はまちまちなものになっていた[7][8]。1886年から1890年まで、デーヴィッド・ベラスコがライシーアム劇団の舞台監督を務め[9]、ヘンリー・チャーチル・デミルとともに劇団のために3作品を共作し、演劇学校でも教鞭を執った。1899年1月、劇場閉場の3年前に、フローマンは劇団をダリーズ劇場 (Daly's Theatre) に移した[10]。フローマンは、劇団が移動した後も、弟のチャールズ・フローマンとともに、演劇の上演を継続した[11]。
ライシーアム劇場で上演された演劇には、アメリカ合衆国やイギリスの俳優たちが出演した。その多くは、後にサイレント映画にも出演した[注釈 1][12]
劇団員同士で結婚した例もあった。
ライシーアム劇場では80以上の作品が上演されたが、その他にも何十もの慈善行事、コンサート、講演会、アマチュアや学生による上演、短期間だけ行われた巡業公演や、レパートリー・シアター形式で上演された作品などがあった。以下で「WP」は世界初演、「AP」はアメリカ合衆国初演を意味する[11][12][注釈 2][13][14]。