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メアリー・ウォートリー・モンタギュー(Mary Wortley Montagu、1689年5月15日 - 1762年8月21日)はイギリスの貴族階級の女性、著述家である。外交官の妻として、トルコに住み、トルコの社会についての記録を『トルコ書簡集』(Letters from Turkey)の形で残した。
ロンドンで、有力な政治家、初代キングストン=アポン=ハル公爵エヴリン・ピアポントの長女として生まれた[1] · [2]。弟が教育を受けているのを身近に接することで、当時の女性としては、受けにくかった教育を受けることになり、10代半ばには詩を書き、上流社会の教養ある婦人のサークルのメンバーになった[3]。
1712年に父親の反対を押し切って、初代サンドウィッチ伯爵の孫のエドワード・ウォートリー・モンタギューと結婚した[4]。
1716年に夫がトルコ大使に任命されると、子供の病気の転地のためにも有益であると考えて、夫に同行してトルコに移ることに決めた。トルコ大使が家族と赴任することは17世紀になってからは珍しくなかった[5]。1717年に夫は大使を解任されるが、メアリーは18ヶ月の間、トルコに滞在した。弟を天然痘で失ったこともあって、トルコで行われていた人痘の接種による予防に興味を持ち、イギリスに戻った後、これを広める努力をした[4][6]。1721年に医師チャールズ・メイトランドに頼み、娘に人痘を接種させ、1722年に国王の孫娘にも人痘が接種された。より安全なエドワード・ジェンナーによる牛痘による種痘が行われるようになるのは1790年代になってからである。
その後、夫との夫婦関係はうまくいかなくなり、お互いにほぼ無関心に暮らすようになった。1738年にイタリアの著述家、フランチェスコ・アルガロッティと知り合い、翌年、イギリスを出てイタリアで暮らすようになった[7]。アルガロッティとの恋愛が終わったあとは、フランスのアヴィニョンで暮らした。イギリスには22年間戻らなかったが、家にはグランドツアーの若者や多くの客を招いた。1761年に夫が亡くなった後、1762年にロンドンに戻ったが、程なくして癌で没した。
同名の娘、メアリーは、1762年にイギリスの首相となる第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートと1736年に結婚した。
1739年に高貴な女性ソフィア(Sophia, a person of quality)という筆名で、作者不詳でモンタギューの著作は出版され、1837年に孫娘のルイザ・ステュアートによってLetters and Worksが Biographical Anecdotes of Lady M. W. Montaguという序文とともに出版された。
詩人のアレキサンダー・ポープとは、トルコへ出発する以前に出会い、トルコ滞在中は、お互いに手紙のやり取りをしている。ポープの手紙にはモンターギュ夫人の機知と優雅さに魅了されている様に見えるが、モンターギュ夫人の返信は熱意のないものであった[8]。イギリス帰国後は手紙のやり取りは稀になり、疎遠になったことを示している[8] 。1728年から書かれたポープの著作、『愚物列伝』ではモンターギュ夫人を攻撃する記述が見られる[8]。
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