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マインツ大司教(ドイツ語: Erzbischof von Mainz)、またはマインツ選帝侯(ドイツ語: Kurfürst von Mainz または Mainzer Kurfürst)は、780/82年から1802年まで神聖ローマ帝国にあった、大きな力を持った司教領主(ドイツ語: Fürstbischof)である。
カトリック教会のヒエラルキーではマインツ大司教はドイツにおける最高位の聖職者(primas Germaniae)であり、アルプス以北でのローマ教皇の代理人であった。マインツ大司教座は司教座の中でも、ローマ大司教座を除いて唯一、「聖」を付して「マインツ聖座」(Sancta Sedes Moguntina)と呼ばれていたが[1]、現在ではこのような呼び方はあまり一般的ではなくなってきている。
マインツ大司教区は神聖ローマ帝国に相当の領地を持っていた。その範囲はマインツ近郊のライン川両岸地帯、フランクフルトの上流までのマイン川一帯(アシャッフェンブルク含む)、ニーダーザクセン州とテューリンゲン州にまたがるアイヒスフェルトEichsfeld)地方、テューリンゲン州エアフルト周辺に及んでいた。マインツ大司教はまた選帝侯の1人であり、ドイツ大書記官長であり、実質的には1251年から、そして1263年から1803年の間は一貫して、皇帝選挙の投票場管理官でもあった。
マインツは「モグンツィアクム」 と呼ばれたローマ属州の都市であり、ローマ帝国時代に司教座が置かれた。4世紀以前の初期の司教については伝説の域を出ないものであるが、最初の司教はクレスケンスと言われている。史実として確認できる最初のマインツ司教は、343年のマルティヌスである。
747年に聖ボニファティウスが着任してから重要性が高まる。ボニファティウスはマインツに来る前に大司教を務めていたが、マインツが大司教座に昇格するのは、次の司教ルルスの時代、780年から782年ごろであった。
1802年、マインツは大司教座の地位を失い、翌年の帝国代表者会議主要決議によって、選帝侯の地位はカール・テオドール・フォン・ダールベルクとともにレーゲンスブルク大司教へと移った。ライン川左岸はフランス第一共和政の領地となり、フランクルト下流のマイン川右岸はヘッセン=ダルムシュタット方伯とナッサウ公国に、アイヒスフェルトとエアフルトはプロイセン王国に渡った。アシャッフェンブルク一帯はダールベルクの所領に留まり、アシャッフェンブルク公国を形成した。1810年のフランクフルト大公国成立により、アシャッフェンブルクはフランクフルト、ヴェッツラー、ハーナウ、フルダと共にフランクフルト大公国に編入された。1813年、ダールベルクは大司教を除く全ての職を辞し、1815年、ウィーン会議によりダールベルクの領地はバイエルン王国とヘッセン選帝侯国、ヘッセン大公国およびフランクフルト自由都市の間で分割された。
現在のマインツ司教座(ドイツ語: Bistum Mainz)は1802年にフランス帝国領に置かれ、1814年には支配域をヘッセン=ダルムシュタットまで拡大した。以来、2人の枢機卿を擁し、さまざまなコンコルダートによって後任司教を選ぶ参事会の中世以来の伝統を維持している。
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