ベウジェツ強制収容所
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ベウジェツ強制収容所(独:Konzentrationslager Belzec)もしくはベウジェツ絶滅収容所(独:Vernichtungslager Belzec)は第二次世界大戦中にナチス・ドイツがルブリン県ベウジェツ村(リヴォフとルブリンの中間地点にある)に設置した強制収容所である。ラインハルト作戦に基づく三大ユダヤ人絶滅収容所の一つである(他の二つはソビボル強制収容所とトレブリンカ強制収容所)。三つの絶滅収容所の中では最初に作られ、他の二つの絶滅収容所のモデルともなった。開設から閉鎖までのわずか1年の間に40万人にも及ぶユダヤ人をはじめとして、ロマ民族・ポーランド人政治犯などが大勢ここで殺害された。「ベウジェッツ」「ベウゼツ」「ベウゼッツ」「ベルゼク」「ベルゼック」などの表記も散見される。
ルブリン地区SS警察高級指導者オディロ・グロボクニク親衛隊上級大佐(当時)が親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受けて建設を開始した。ベウジェツが選ばれたのはひと気がなく、鉄道に近い場所であったためであった。ベウジェツ駅から分岐した線路を300メートルほど進んだところにベウジェツ強制収容所の入り口が存在した。1941年11月から建設が開始され、翌12月に完成した。ベウジェツの初代所長には後に三大絶滅収容所総監となるクリスティアン・ヴィルトが就任した。後に「ラインハルト作戦」と名付けられることになるポーランドユダヤ人絶滅作戦のための三大絶滅収容所の最初の収容所であった。ベウジェツに移送されてくる者はガリツィア、クラカウ地域、ルブリン地域からの者が多い[1]。
1942年2月末に移送されてきたユダヤ人を使ってガス室実験が行われた。はじめ一酸化炭素が試用されたが、続いて試された戦車の排気ガスを管を通してガス室に流し込むやり方の方が良いと判断して以降ベウジェツではこの方法でガス殺が行われることとなった[2]。絶滅作戦に拍車がかかったのは1942年7月から11月にかけてであった。1942年7月19日にハインリヒ・ヒムラーが、年内に総督府のユダヤ人は全員殺害するようにと各絶滅収容所所長に命令したためであった[3]。
1942年末になるとポーランドにおけるユダヤ人社会がほぼ壊滅し、またアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所が巨大化したため、ベウジェツの必要性は薄れ、1942年12月をもって活動を停止した。他の三大絶滅収容所に先がけての活動停止だった[4]。さらに墓地の死体の焼却と植林など証拠隠滅作業が始まり、1943年半ばには完全に解体されてベウジェツ収容所は跡形もなく消滅した。
収容所には2ブロック存在し、1ブロックは囚人の到着にかかる事務を担当する場所であり、囚人から衣服や荷物をはぎ取り保管するための場所であった。そして2ブロックに10個のガス室が存在し、他に共同墓地や死体の搬送作業などに当たる労務囚人の住居スペースなども存在した。
絶滅収容所であったベウジェツは一般の作業場を設けなかったため収容所としては狭く、縦275メートル、横263メートルのほぼ正方形型の収容所だった。5か所の監視塔が存在し、機関銃が常にガス室へ向かう囚人たちに狙いをつけていた。看守は20名から30名程度の親衛隊員と60名から80名程度のウクライナ義勇軍の兵士で構成された。看守たちは収容所内ではなくベウジェツ駅の付近に住居を持ちそこで暮らしていた。
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