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フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニア
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フローレンツ・ジーグフェルド・ジュニア(Florenz Ziegfeld, Jr.、1867年3月21日 - 1932年7月22日)は、アメリカ合衆国の舞台演出家、プロデューサー。
米国レヴュー界の第一人者であり、1907年から1931年まで、ブロードウェイで「ジーグフェルド・フォリーズ」と呼ばれる豪華なレヴューを興行するなど、スペクタクル性を重視した米国風レヴューを確立し、また数々のスターを発掘したことで知られる[2]。
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略歴
1867年3月21日(15日とする資料もある[1])にシカゴで生まれる。ドイツ移民である父親は音楽学校の経営で成功しており、比較的裕福な環境で育つ。また、幼い頃から広告や宣伝に関心を持つ[1]。
1893年にシカゴ万国博覧会の客を見込んで父親がナイトクラブを開くものの経営に失敗、その窮地を救うため、後に「近代ボディビルの父」と呼ばれるようになるユージン・サンドウを起用し、サンドウの肉体美を使った宣伝活動を積極的に行なった結果、父親のナイトクラブに客が集まるようになる。その後、サンドウによる怪力ショーで巡業を始め、各地で成功を収めるが、2年後にサンドウとは円満な形で別れる[1]。
次にジーグフェルドは舞台の興行に乗り出し、1896年にはポーランド生まれで内縁の妻でもあるフランス人女優アンナ・ヘルドを牛乳風呂などの宣伝文句を使ってスターにすることに成功、メディアを使った「スターメイキング」の仕組みを確立する[3]。
1907年には初のレヴューとなる「ジーグフェルド・フォーリーズ」をプロデュース、その後1931年まで毎年公演を行う。この「フォーリーズ」はパリのフォリー・ベルジェールをモデルにしている[3]。

ジーグフェルドのショーに出演したことで名声を得たスターにはマリリン・ミラー、ウィル・ロジャース、レオン・エロル、バート・ウィリアムズ、ファニー・ブライス、エディ・カンターなどがいる[3]。
1929年に起きた世界恐慌をきっかけに財産の多くを失う。1932年、かつて成功した公演をリバイバルするが、大不況の中、充分な収益を上げられず、同年の7月に胸膜炎で亡くなる[3]。ジーグフェルドが残した借金を返すため、未亡人となったビリー・バークはその後20年以上に渡り、休みなく働くことになる[1]。
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私生活
女優のアンナ・ヘルドとは1897年から事実婚状態にあったが、ヘルドが既婚者だった(1908年に夫が死亡[4])こともあり、正式に結婚しないまま1913年に別れる。その翌年1914年に女優のビリー・バークと結婚、1女をもうける[3]。
ブロードウェイ・シアタ・プロダクション
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ジーグフェルドを扱った作品
映画
- 巨星ジーグフェルド(1936年、ジーグフェルド役:ウィリアム・パウエル)
- ジーグフェルド・フォリーズ(1945年、ジーグフェルド役:ウィリアム・パウエル)
舞台
参考文献
外部リンク
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