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北マリアナ諸島の島の一つで、アメリカ合衆国の自治領(北マリアナ諸島に所属)。 ウィキペディアから
テニアン島(テニアンとう、チャモロ語: Tini'an、英語: Tinian)は、北マリアナ諸島の島の一つ。面積は約100km2で、サイパン島からは約8kmの距離にある。現在はアメリカ合衆国の自治領(北マリアナ諸島に所属)である。北緯15度線が通る。
テニアン島は、かつて先住民族のチャモロ人が自給自足の暮らしを送っていた。マリアナ諸島が西洋人に「発見」されたのは1521年のマゼランの世界一周航海の途上であった。この時マゼランはグアム島に上陸し、ロタ島を望見したが、テニアン島にはやって来なかった。
140年後の1668年6月16日、カトリック司祭でイエズス会宣教師のディエゴ・ルイス・デ・サン・ビトレスら5人がグアム島に上陸してキリスト教布教を開始。サン・ビトレスはマゼランによってラドローネス諸島(ラドローネスとはスペイン語で盗賊、泥棒の意)と名づけられた島々をマリアナ諸島(スペイン王妃マリアナより)と名付けた。当初布教活動は順調であったのだが、宣教師が住民の旧習に干渉するようになってから住民の間で不満が高まり、1670年にルイス・デ・メディナ (Luis de Medina) が殺害され、サン・ビトレスもグアムで殺害された。
スペインの支配が確立した後、1695年にスペインは島民全員をグアム島に強制移住させ、テニアンは無人島となった。19世紀の中頃からはスペインにより同島は牛や豚の放牧地となったが、後に放棄されテニアンは野生化した家畜のみが住む島と化してしまった。
米西戦争でのスペイン敗北を契機に、1899年、スペインはテニアン島を含む北マリアナ諸島の支配権を450万ドルでドイツ帝国に売却した。
ドイツのサイパン島庁はテニアンで野生化した家畜を有効利用すべく、ハム工場を建設するが結局失敗に終わった。その後は週1回、サイパンで雇ったハンターを送り込むだけとなった。テニアンで得た牛や豚はサイパン産の牛や豚の3分の1で取引され、島民用の食肉となった。
第一次世界大戦でのドイツ敗北によって、統治権は日本に移動した。1920年(大正9年)には、国際連盟より正式に日本の委任統治領となる。
日本の統治となりテニアンで初めて本格的な開発が行われ、1916年(大正5年)11月には最初の移民である日本人4人とサイパン島民約20人が移住し、森林の伐採と開墾に従事した。テニアンの開発を請け負った丸喜商会は、マリアナ諸島北部のパガン島とアグリハン島から種用の椰子の実10万個を買い入れ、椰子の栽培が開始された。
その後、1918年(大正7年)2月22日に山形県出身の日本人約100名とサイパン、ロタの両島民約300人がテニアンに移住し、彼らはまず、海岸沿いのソンソン地区から内陸のマルポ地区までの間の森林を伐採し、連絡道路を開通させ、その後森林を開墾して椰子栽培を開始した。しかし、会社の指導法や待遇に不満を持った移民たちは、1918年(大正7年)末にストライキを起こした。その結果、ストライキは成功したものの、この時までに30名余りの日本人が島を離れることになった。
一方、椰子栽培の方は10万個のうち6万7~8千個を植え付けることに成功したが、1919年(大正8年)の初め頃に害虫(イセリヤカイガラムシ)が大発生し、さらに6月に起こった大旱魃が追い討ちをかけたため、テニアンの農産物は、椰子だけでなく島民や移民たちの食糧となるバナナやパンの木に至るまですべて全滅した。その結果、テニアンの開発を請け負っていた喜多合名会社(丸喜商会が1918年(大正7年)に改名)は破産し、日本から来た移民は、十数人を残して内地やサイパン島に引き揚げた。
1926年(大正15年)に新たにテニアンの開発を請け負った南洋興発は、沖縄や福島、山形などから移民を集め、椰子に代わって砂糖やコーヒー、綿花の生産を開始させた。その結果、昭和初期にテニアンの砂糖の生産量は、台湾に次いで東洋第二位の生産量となるまでになった。その他にも同島では鰹漁が盛んとなり、島内には鰹節工場もあった。
1944年(昭和19年)6月時点での人口は、日本人15,700名(軍人を除く)、朝鮮人2,700名、チャモロ人26名であった。
テニアン島での戦争についてはテニアンの戦いを参照。
太平洋戦争中は島北部に当時、南洋諸島で一番大きい飛行場であるハゴイ飛行場があったことから日本軍の重要な基地となり、軍人の駐屯は、陸海軍合わせて約8,500人に達した。
米軍はテニアンの戦略的価値の高さに注目し、1944年(昭和19年)7月24日に北部のチューロ海岸から上陸、8月2日に同島を占領した(テニアンの戦い)。その後、ハゴイ飛行場は拡張整備され、島の東部にはウエストフィールド飛行場(現テニアン国際空港)が建設されて、本格的な日本本土空襲を行う基地となった。当時世界最大級のハゴイ飛行場(米国名ノースフィールド飛行場)は4本の2,500メートル滑走路を備え、最大265機のB-29爆撃機が配備された[1]。
1944年(昭和19年)11月以降、連日のように日本に向かうB-29がこの島を離陸していった。1945年(昭和20年)8月6日の広島、8月9日の長崎への原爆投下作戦のB-29もここから発進した。
1947年にグアムを除く北マリアナ諸島は、アメリカの信託統治領となった。1948年にはサイパン島やロタ島、ヤップ島よりチャモロ人やカロリニアン約400人が再び移住し[2]、1950年代に現在のテニアンの中心地であるサン・ホセを建設した。 1953年、戦没者遺骨収集を行っていた日本丸が島に寄港[3]。
1986年にコモンウェルスである北マリアナ諸島の一員となった。現在の人口は約3,500人と言われているが、この数値は最後に国勢調査を行った時のものであり、近年は原油高の影響で島を離れる者も多いため、実際の人口は2,500人程である。
2018年、平成30年台風第26号の直撃により甚大な被害を受けた。
2023年、アメリカ軍は、中国の太平洋進出に対抗するために、第二次世界大戦後に放棄されたノース・フィールド飛行場の再建を検討していることを明らかにした[4]。
島全体に観光名所が点在しているが、南西部のサン・ホセがメイン観光地として人気が高く、タガ酋長の家やテニアンビーチ・タガビーチ・タチョンガビーチ・石灰石の森の小道などがある。特にこのエリアのビーチでは、ウミガメを見ることが出来ることで人気が高く、世界でも有数の美しさを誇る海は、透明度が80メートルもあり、サイパンのマニャガハ島に匹敵するほどの高い水質で、ダイビングやスノーケリングに最適である。ただし、サイパン島にあるようなラグーンはなく、波の高いところが多い。ビーチには、人があまりいないためとても静かで、プライベートビーチのように利用でき、自由にバーベキューを楽しむ人の姿も見られる。
テニアン島は、島の形状がニューヨークのマンハッタン島に似ていることから、島の道路には「ブロードウェイ」や「8番街」のように、テニアンを占領した米軍によって、ニューヨークにあやかった名が付けられた。島の散策途中には、NKK神社の大きな鳥居や旧日本軍の司令部、防空壕が現存しているなど、日本統治下や太平洋戦争の歴史も伺うことができる。
テニアン島中心部の草の豊富な丘には、北マリアナ諸島最大の牧場であるM.D.C.牧場がある。島の3分の1の面積を占める広大な牧場には、数千頭の乳牛や肉牛が放牧されている。以前は、日本のオーディオメーカーのパイオニアが経営していたが、BSE問題の際に牧場が倒産し、その規模は縮小され、柵だけが残っている。車などで牧場内を散策する事ができ観光名所になっている。[5]。
・ Tinian Casino(テニアン・カジノ)
2020年、タガ遺跡とカマー・ビーチに面する土地にTinian Casinoが開業予定[7]。
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