ジョセフ・ルッテンバーグ(Joseph Ruttenberg, 1889年7月4日 - 1983年5月1日)は、ロシアで生まれ、アメリカ合衆国で活動したフォトジャーナリスト撮影監督である[1]

概要 ジョセフ・ルッテンバーグ Joseph Ruttenberg, 生年月日 ...
ジョセフ・ルッテンバーグ
Joseph Ruttenberg
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『ジュリアス・シーザー』撮影時のルッテンバーグ(右)。デボラ・カー(左)、グリア・ガースン
生年月日 (1889-07-04) 1889年7月4日
没年月日 (1983-05-01) 1983年5月1日(93歳没)
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サンクトペテルブルク
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
職業 撮影監督
受賞
アカデミー賞
撮影賞(白黒)
1938年グレート・ワルツ
1942年ミニヴァー夫人
1956年傷だらけの栄光
撮影賞(カラー)
1958年恋の手ほどき
ゴールデングローブ賞
撮影賞(カラー)
1954年ブリガドーン
その他の賞
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アカデミー撮影賞を4回、ゴールデングローブ賞を1回受賞している。

生涯

ロシア帝国サンクトペテルブルクでユダヤ系の家庭に生まれる。10歳の時に家族でアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに移る。若年期は『ボストン・グローブ』紙でフォトジャーナリストとして活動するが、1915年に退職してニューヨークフォックス・フィルム・コーポレーションに入り、撮影監督を目指す。2年後、サイレント映画The Painted Madonna』でデビューする[2]

1920年末にはパラマウント映画に移った。D・W・グリフィスの『The Struggle』(1931年)はルッテンバーグが初めて手がけたトーキー作品となった。1934年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約し、ハリウッドに移った。また全米撮影監督協会にも入った。

1968年に引退し、1983年にカリフォルニア州ロサンゼルスで亡くなった。

主なフィルモグラフィ

受賞とノミネート

さらに見る 賞, 年 ...
部門作品名結果
アカデミー賞 1938年[3] 撮影賞(白黒) グレート・ワルツ 受賞
1940年[4] 哀愁 ノミネート
1941年[5] ジキル博士とハイド氏 ノミネート
1942年[6] ミニヴァー夫人 受賞
1943年[7] キュリー夫人 ノミネート
1944年[8] ガス燈 ノミネート
1953年[9] ジュリアス・シーザー ノミネート
1956年[10] 傷だらけの栄光 受賞
1958年[11] 撮影賞(カラー) 恋の手ほどき 受賞
1960年[12] バタフィールド8 ノミネート
ゴールデングローブ賞 1954年[13] 撮影賞(カラー) ブリガドーン 受賞
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参考文献

外部リンク

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