グループGT1 (グループジーティーワン)は、自動車レース に使用する競技車両のカテゴリーの1つである。元はBPR GT選手権 時代に設立されたカテゴリーで、GT車両 のトップカテゴリーだった。
1998年 メルセデスベンツ CLK-LM
2005年からの「GT1 」は、元々「旧GT1」の下位に位置したGT2クラスであり、両者は全くの別物である。
国際自動車連盟 (FIA)による正式な呼称は「Groupe GT1 (仏語:グループ GT1)」であるが、日本国内ではあまり一般的な呼び方ではなく、「GT1クラス 」もしくは「FIA GT1 」などと呼ぶことがほとんどである。
本項では、1994年-1999年までのGT1クラスについて記述する。
自動車メーカーの撤退でスポーツカー世界選手権(SWC) のグループCカー のレースは1992年限りで打ち切りになり、国際的なスポーツカーレースは無くなり、各国が量産GTカー で争うマイナーシリーズが開催される状態になった。これを受けてステファン・ラテル らが1994年、新たな国際スポーツカーレースを立ち上げた。これがBPR GT である。参加車両は改造範囲によってGT1、GT2にクラス分けされ、GT1は最低生産台数25台の車両公認 条件があった。これが現在まで引き継がれるGTレースの原型となった。FIA やル・マン24時間レース 主催のACO も関心を寄せ、交流を促進した。ところが1994年からBPR GTマシンをルマンに迎え入れるにあたり、ACOはローカルルールでレース仕様の車両以外に市販用ストリート車が1台生産されていれば車両公認 を与え、LMGT1として出走を認めた。BPR GTに参戦せず、ルマン24時間レースにスポット参戦できる抜け道が生じた。ACOは将来的にLMGT1をイベントの主流にすべく規制面で大きな恩恵を与えた。これにより、ポルシェ・911GT1 、マクラーレン・F1GTR 、メルセデス・CLK-LM 、日産・R390GT1 、トヨタ・TS020 、などが参戦した。元々量産車ベースのレースだったGTシリーズがストリート仕様1台で車両公認が取得できるという規則は、一見すると参戦を容易にしたように見えるが、実際は逆になった。技術をふんだんに投入したGTとは名ばかりのレーシングカー が参入し、プライベートチームの出る幕は無くなってしまった。FIA、ACOの狙い通りメーカーを引き入れることには成功したが、メーカーは技術競争に走り、GT1クラスのレギュレーションの限界を追求した事実上のプロトタイプカー になってしまい、プライベートチームは技術競争もストリート仕様車ではビジネスを成立できなくなっていった[1] 。
初期(1994-1996)
1992年のFIAスポーツカー世界選手権 の終了に伴い行われることになったBPRグローバルGTシリーズ は、ユルゲン・バルト、パトリック・ピーター、ステファン・ラテル(シリーズオーガナイザーBPRの名前を形成する姓)によって、設立された4時間の耐久レースのチャンピオンシップ[2] 。 元ルマン優勝者のバルトはポルシェ のカスタマーコンペティション部門のマネージャーであり、ピーターは評判の高いレースプロモーターであり、ラテルはヴェンチュリー GT1プロジェクトのエグゼクティブ/投資家であった。このシリーズには4つのカテゴリー、つまりGT1〜4まであり、それぞれの番号が減少することは、技術規制の自由度が増すことを意味した。
1994年 この年のルマンで優勝したダウアーポルシェ・962LM はクラスこそLMGT1であったが、グループCカー の962C ベースにストリート仕様を仕立てて車両公認を取得しレースに出場した。94年は旧型のグループCカーも出走可能であったが、ACOは将来的にLMGT1を主流にすべく規則面で大きな恩恵を与えていた。GT1クラスの変質の兆しがすでに表れていた[3] 。
1995年 2シーズン目のBPR GT の主導権を握ったのは、マクラーレン・F1GTR であった。ジェントルマンドライバーの要望を受ける形でレース仕様のF1GTRを94年から供給開始し、95年のBPR GTの主役となった。95年のルマン24時間レース で優勝し、[4] かつてシリーズグリッドを支配していたポルシェ964 型の911カレラRSRに取って代わった。さらに、かつてプライベーターを対象としていたチャンピオンシップにもプロチームが参加し始めたため、コストが大幅に増加した[5] 。 さらにチャンピオンシップは成長し、マクラーレンF1 GTRや新しいポルシェ・911/993 をベースにしたポルシェ911GT2Evo など、GT1クラスにメーカーからマシンの流入によりチャンピオンシップのグリッドが拡大。
1996年 ポルシェは正式なGT1マシンとして911をミッドシップ化したポルシェ・911GT1 を開発した。ポルシェはファクトリーチームを数ラウンドに送った。911GT1は、見た目はポルシェ・962 であったため、パドックではもっぱらルールの精神に反して構築されたと考えられていた。しかしフロント~センター部は911タイプ993ボディを流用しており [6] [7] 、ポルシェ911GT1の市販車を25台生産し、正式なGT1車両公認 を取得してBPR GTにも参戦している[8] 。
GT1プロトタイプ化時代(1997-1999)
GT1プロトタイプ時代の幕開けとなるポルシェ911GT1(993)
1997年 BPR GTはFIA直轄カテゴリーとし、FIA GT選手権 と改称した。GT1クラスはルマンのLMGT1クラスと同じくストリートモデル1台で認可するとした。この変更により、GT1クラスのグリッド全体がプロチームのみで構成され、プロチームとメーカーの流入がさらに増加 [9] 1997年のシーズンには、CLK-GTR をデビューさせるメルセデスAMG チームが登場した。911 GT1と同様に、CLK-GTRもGT1としての車両公認を取得、FIAGT選手権に参戦した。マクラーレン(BMW)も設計を一からやり直し、前後オーバーハング を伸ばして空力特性を向上させたマクラーレンF1-GTR ″ロングテール″で、FIA-GT選手権およびル・マン24時間レースに参戦。ル・マン24時間レースにて総合2位を獲得した。ホモロゲーション 車輌として、「Road version」が3台製作されている[10] 。日産はベース車両をスカイライン・GT-R から、実質純レーシングカーのR390 へ切り替えた。1台の公道使用の生産でGT1の車両公認を取得した[11] 。
1998年 メルセデスCLK-LM はホモロゲモデル1台の生産でGT1を名乗った。さらにトヨタは車両規則を徹底的に突き詰めて開発したTS020 をルマンにエントリーした。さらにポルシェは911GT1-98を導入した。FIAは車両公認を緩和してメーカーをGT1クラスに引き込んだ。しかしそれゆえカテゴリーの大義が曖昧になっていった。結果、プライベートチームは参加の意義を失い、開発競争に疲れたメーカーもGT1クラスから手を引きGT1を取り巻く空気は冷え込んだ[12] 。
1999年 FIA GT選手権ではGT1クラスに参加するチームはメルセデス以外無くなった。これによってFIAはGT1クラスの開催を中止し、FIA GT選手権におけるGT1クラスを廃止(同年のルマン ではLMGT1からLMGTPとしてプロトタイプカーとなった)、下位クラスのGT2 をGTクラスと改めた[13] 。新しいFIA GTではスーパーカー達が再び主役となったが、メーカーの興味はルマンとプロトタイプカーから戻ることは無かった[14] 。
25台以上量産されている車両が原則であるが、FIA、ACOは1台でも生産されている市販車でも車両公認 を与えた。
排気量はNA8000ccまで、ターボ4000ccまで。同一メーカーのものならエンジンの変更可。サスペンションも同一形式内での改造自由、最低重量900kg、燃料タンク100リットル、タイヤ幅14インチである。エンジン排気量や過給器の有無、バルブ数などによりリストリクター の直径が決定され、出力は600-650PSに抑えられた[15] 。
『レーシングオン アーカイブス Vol.13』三栄書房、2019年2月7日、10-15頁。
『レーシングオン アーカイブス Vol.13』三栄書房、2019年2月7日、10-15頁。
『レーシングオン アーカイブス Vol.13』三栄書房、2019年2月7日、10-15頁。
『レーシングオン アーカイブス Vol.13』三栄書房、2019年2月7日、10-15頁。
『レーシングオン アーカイブス Vol.13』三栄書房、2019年2月7日、10-15頁。
『レーシングオン アーカイブス Vol.13』三栄書房、2019年2月7日、10-15頁。
『レーシングオン アーカイブス Vol.13』三栄書房、2019年2月7日、10-15頁。
『ルマン 伝統と日本チームの戦い』グランプリ出版、1995年7月1日、27-154頁。