カルロ・マッツォーネ

イタリアのサッカー選手、指導者 (1937-2023) ウィキペディアから

カルロ・マッツォーネ

カルロ・マッツォーネCarlo Mazzone, 1937年3月19日 - 2023年8月19日[1])は、イタリアローマ出身のサッカー監督。2019年にイタリアのサッカー殿堂入りを果たした[2]

概要 カルロ・マッツォーネ, 名前 ...
カルロ・マッツォーネ
名前
ラテン文字 Carlo Mazzone
基本情報
国籍 イタリア
生年月日 (1937-03-19) 1937年3月19日
出身地 ローマ
没年月日 (2023-08-19) 2023年8月19日(86歳没)
イタリアアスコリ・ピチェーノ
身長 182cm
体重 75kg
選手情報
ポジション DF
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
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カルロ・マッツォーネ

来歴

現役時代はディフェンダーとしてSPALASローマ活躍、1969年に引退。一方で現役時から指導者への道を歩み、キャリアのラストを飾ったアスコリで監督デビュー。1971-72シーズンにチームをセリエCからBに昇格させ、1973-74シーズンにはクラブ創設以来初のセリエAへと導いた。監督としては主に、ASローマフィオレンティーナSSCナポリボローニャブレシアなどを指揮、セリエA通算792試合で指揮した[3]カリアリを指揮した、1992-93シーズン、チームをリーグ6位に導き、UEFAカップ出場権の獲得に成功した[4]。1993-94シーズンのUEFAカップでは、準決勝までチームを導いた。

残留と昇格のスペシャリストとされ、特にマイナークラブの指導にかけて実績がある。ローマ時代では、フランチェスコ・トッティを、ブレシア時代にはロベルト・バッジョアンドレア・ピルロを、ペルージャでは中田英寿を指導した。インテルでは活躍出来ず、他チームと交渉中だったロベルト・バッジョをブレシアに勧誘、ブレシア会長にも獲得を進言して獲得した[5]。また、同じくインテルでは活躍出来ず、ブレシアに戻ったピルロを、トップ下から中盤の底のポジションにコンバートさせ、ピルロのレジスタとしての才能を開花させた[6]

2023年8月19日、アスコリ・ピチェーノで死去した[1][7]

その他

カリアリで指導したマッシミリアーノ・カッピオーリ、ローマで指導したファビオ・ペトルッツィを重宝し、その後、新たに監督を務めることになったチームで、カッピオーリは3度、ペトルッツィは2度獲得した[8][9]

所属クラブ

監督経歴

脚注

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