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HITAC(ハイタック)とは、日立製作所が自社製コンピュータに使用していた商標。 "HItachi Transister Automatic Computer" から。
日立製作所(以下、日立)では、1951年ごろからアナログコンピュータの研究が開始され、1956年ごろからデジタルコンピュータの研究に着手した。まずパラメトロンを使用したプロトタイプとして1957年、HIPAC MK-1を開発。電源開発只見幹線の設計で送電線弛度張力計算などに使われた。その後パラメトロン計算機としてはHIPAC 101とHIPAC103が製品化されることとなったが、以降は並行して研究していたトランジスタ式コンピュータを製品化していくことになった。
トランジスタ式コンピュータはETL Mark IVをベースとして技術導入し、1959年にHITAC 301として製品化したのが最初である。これは事務用を指向し、日本電子工業振興協会に納入された。翌年には制御用コンピュータとしてHITAC 501を開発、関西電力東大阪変電所に納入している。また電気試験所から ETL Mark V の製作を受注している。これをベースに京都大学の研究者らの協力で改良した製品がHITAC 102(1960年)である。京都大学ではKDC-1 (Kyoto-Daigaku Digital Computer 1) と呼ばれた。経済企画庁経済研究所はパンチカードシステムの代替として改良型の HITAC 102B を導入。1961年には事務用途の小型コンピュータとしてHITAC 201を開発した。
さらに1958年、国鉄鉄道技術研究所からマルス1の製作を依頼され、完成させる[7]。マルス1は専用設計のコンピュータということもあってかHITACの銘は冠されなかったが、後継のマルス101では他の同様なシステムにも使えるよう設計されHITAC 3030とし、全日空の座席予約システムなどにも使われた。マルスには、その後は一貫して日立のメインフレームが使われることとなった。[8]
1961年、日立はRCAとコンピュータ技術提携契約を結んだ。この契約により1962年、RCA 301を国産化したHITAC 3010を開発した。1号機は神奈川県庁に納入された。なお、3010は無人証券取引システムの構想があったが、関係者の合意を得られず、棚上げとなっている。後継のHITAC 4010(1963年)はオンラインリアルタイム処理や銀行の為替オンラインシステムなどに使われた。
また、RCAからの技術導入とは別に、TACの開発を行った村田健郎と中沢喜三郎が設計した科学技術用大型コンピュータHITAC 5020が1963年に完成している。ビット単位のアドレス指定を可能とするために、ワード長32ビットのアーキテクチャを持ち、当時としては珍しいビット操作命令を持つ、などといった特徴を持つ。しかしそのために、ワード単位でのアドレス空間が16ビットしかなく、狭いという問題などがあった。電総研から日立に入った高橋茂は、字単位のアドレス指定への変更を主張していた[注釈 1]。5020は国産初の大型機であり、IBM 7090並みのスペックを持つ。レジスタに電磁遅延線を利用することでトランジスタを増やさずにレジスタの本数を多くした。遅延線の直列動作による遅さは最新のトランジスタによる高速動作(スペック表には「18MHz」とあるが、その値はビット単位の直列動作の周波数であって、現代の我々が持っているコンピュータのクロックの感覚で評価してはいけない。同じスペック表にある「サイクル時間」の「2マイクロ秒」という値から逆算すれば、「サイクル周波数」は 0.5MHz となる。それでももちろん当時としては高性能である)でまかなったが、それでも前述のメモリ空間と共に速度も問題になり、改良型の同Eと同Fでは並列化が図られた。1965年に製品として出荷され、東京大学大型計算機センター(現東京大学情報基盤センター)をはじめ、多くの組織に納入された。
なお、RCAは新製品がなかなか出てこず、やっと出てきたものも日立が期待したアーキテクチャではなかった。そういったこともあり、前述の3030などもRCAからの技術ではない。そうこうしているうちにIBMが、1964年4月、System/360を発表し、どう対抗していくかがRCAと日立の間で話し合われた。その結果IBM互換路線を採ることとなった。
2001年よりCPUはIBMと共同開発、2018年よりハードウェアをIBM z Systemsベースの日立仕様メインフレームを提供予定[9][10]
1967年には日立製作所の越智利夫を中心とするグループが5020Eを使用して詰将棋を回答することに成功、加藤一二三(当時八段)が60秒で解く問題を90秒で解いたことでアマ初段の腕前とされた[11][12][13]。1968年、週刊朝日の企画で人間対コンピュータの詰将棋早解き競争が行われることとなり、コンピュータには「H君」(HITAC5020)が選定された。人間側の多くはアマ有段者であり、結果は人間側の49勝53敗であった。審判・解説の原田泰夫八段と加藤一二三八段は、「H君」の詰将棋を解く棋力をアマ三段と認定した[14]。
HITAC 8000 シリーズは、RCAがIBMに対抗して1964年に発表したSpectra 70シリーズの基本設計をベースとして日立独自の技術を加えて開発したものである。特徴は以下の通り。
HITAC 8400はマルス103/104/201で使われた。また、東京慈恵会医科大学での日本初の医事会計システムでも採用された。HITAC 8500は1974年に運用開始された証券市場情報システムで使用された。さらに社会保険庁のオンラインシステムにも採用されている。その後、データベースが重視されるようになったため、8x50系列ではデータベース向けの機能拡張を行い、価格性能比を向上させた。
なお、RCAはSystem/370が単なる360の改良と予想して Spectra 70 を値下げして対抗しようとした。この予想が外れ、事業そのものが立ち行かなくなった。結果としてRCAは1971年にコンピュータ事業をUNIVACに売却することになり、日立は独自に開発を進めることとなった。
1967年、通産省主導の超高性能電子計算機プロジェクトで日立が中心となって開発が行われることになった。このプロジェクトで以下のような技術が開発された。
また、NECはこのプロジェクトでNMOS型メモリチップを開発した(キャッシュメモリに使用された)。現在もキャッシュメモリに使用されるSRAMの原点である。これも含め、プロジェクトの成果は後のDIPS[23]にも生かされることとなった。なお、8000シリーズの入出力インターフェイスを発展させた「インターフェイス69」が標準仕様として策定されISOにも提案されたが、審議順序についてアメリカからの反対があって審議が先延ばしとなり、結局標準として採用されることはなかった。また、8800にもそのまま採用されることはなかった。プロジェクト自体は1972年8月に完成したが、その成果は先行して製品化された。
このプロジェクトの成果を改良し商用化したのがHITAC-8800とHITAC-8700である。8800/8700を使用した東京大学計算機センターのタイムシェアリングシステムは1973年に稼動開始した。
1971年、日立は富士通と提携し、アーキテクチャを共通化することとなる(三大コンピューターグループを参照)。両社はIBM互換路線を採用し、Mシリーズという共通のサブシリーズ名を付けた(MITI(通産省)のM[26])。通産省は販売面でも協力するよう指導し、ファコム・ハイタックという会社(略称はFHL、現在の日立 公共システム事業部の前身)が設立されたが、これは主に値引率の大きい大学など教育関連の入札に関与するだけで、両社はそれ以外の市場では激しく競合していた。
IBMはハードウェアとオペレーティングシステム (OS) などのソフトウェア、さらにはサービスをまとめてレンタルしていた。これが私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)違反にあたるとして提訴され、1969年にこれらを分離して販売するようになった(OSとハードの分離は1978年)。これは大きな影響を周辺業界にもたらしたが、その一つとしてアムダールなどの互換(プラグコンパチブルマシン)メーカには後押しとなった。また、同じく独占禁止法対策として1956年にはレンタルだけでなく買い取りもできるようにしていた。こちらはIBM機を買い取って貸し出すリース業者を生み出した。リース業は製品寿命が長くないと成り立たないため、当初はほとんど出現しなかったもののSystem/360のころには多数のリース業者が登場することになった。System/370の登場でリース品が陳腐化し、リース業者は大打撃を受けたが、370をリースする業者も当然登場した。その一社がアイテルである。また、IBMはIBMのマシンに独自の周辺機器を追加して販売するOEM業者のために周辺インターフェイスを公開していた。このことが互換周辺機器製造業者を育てることになった。アイテルはIBM純正品よりも安い互換周辺機器をIBMの本体に組み合わせてリースしていたのである。アイテルはさらにCPU互換機を採用した。ナショナル セミコンダクター (NS) の製造するIBM互換機(中小型)と日立の大型機 HITAC M-180である。
しかし、1979年にIBMが価格性能比を劇的に向上させた新製品を登場させるとアイテルは危機に陥り、コンピュータ部門をNSに売却することになった。日立はNSにMシリーズを供給し続けたが、1989年にNSの汎用コンピュータ部門を日立が買い取り、日立データシステムズ (HDS) を設立した。
日立と富士通の両社は、通産省の補助金を受けてIBMとプラグコンパチブルの汎用機シリーズ、Mシリーズを開発し(Mの由来については前述)、1974年11月に最初の機種を発表した。[27]
IBM互換路線を採用した日立は、常にIBMの新製品を追随しなくてはならない立場に置かれた。性能は独自にハードウェアを強化できたとしても、ソフトウェア的な機能の追加には、互換を保つ関係上、IBMの動向に注目せざるを得ないのである。そのような背景の中で1982年に発生したIBM産業スパイ事件は、大スキャンダル扱いされ、大きな影響が各方面にあった。
日立のスーパーコンピュータは1978年のM180用IAP(Integrated Array Processor)[37]から始まった。これはメインフレームのコプロセッサとして使用するベクタープロセッサ機構である。その後のスーパーコンピュータもMシリーズにベクタープロセッサを接続した構造である。HITAC S 810の1号機は東京大学に納入された。
以下はHITAC銘が付かないが参考のため掲載する。
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日立が開発したOSが使われた。VOSK、VOS1、VOS2、VOS3というOSがあった。
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