Loading AI tools
ウィキペディアから
黒海ドイツ人[1](ドイツ語: Schwarzmeerdeutsche; ロシア語: черноморские немцы; ウクライナ語: чорноморські німці)またはウクライナ・ドイツ人は、18世紀から19世紀に母国を離れ、黒海の北側の領域(大部分ロシア帝国南部の領域で現在のウクライナを含む)に住み着いた民族ドイツ人」(ethnic Germans、ドイツ国外にあるドイツ人)である[2] 。
黒海ドイツ人として含まれるのは黒海エリアに由来する次のグループである(ベッサラビア・ドイツ人、クリミア・ドイツ人、ドブロジャ・ドイツ人、 およびロシアン・メノナイトなど)。
黒海ドイツ人はヴォルガ・ドイツ人とは区別される。2つのグループは、ほぼ同時期に同じ理由でロシア帝国に移住した民族であるが地理的、文化的にはヴォルガ・ドイツ人とは異なる。
ドイツ人は1800年頃、南ウクライナおよびクリミア半島に住み始めた。その時代、南ウクライナはロシア帝国の一部だった。これらの土地はオスマン帝国(1768–1774)とクリミア・ハン国(1783)に対する戦争に勝利した後、エカチェリーナ2世の統治下、ロシア帝国によって併合された。
入植地の範囲はヴォルガ・ドイツ人の入植範囲ほどコンパクトではなかった。むしろ複数の植民地が連なっている事が多かった。最初のドイツ人入植者は1787年にやって来た。初め西プロイセンから、後にドイツ西部、南西ドイツ、アルザスおよびワルシャワから。カソリック、ルター派、 メノナイトはすべて有能な農家として知られていた。 (メリトポリュ地区のメノナイト入植地に関するモロチュナ入植地の項目を参照); エカチェリーナ2世自身は彼らにロシア帝国への移住を勧める個人的な招待状を送った。
1917年のボルシェビキ革命とソビエト連邦の成立の後、黒海ドイツ人は第二次世界大戦前、ホロドモール(強制餓死政策)に晒され、ドイツ語を使用する教会を閉鎖され、学校は授業の言語をドイツ語からロシア語またはウクライナ語に変更することを強制された。45,000人のクリミア・ドイツ人は黒海ドイツ人とともにシベリアとカザフスタン(その多くは強制労働収容所: forced labor camp)に追放された[2]。
多くはソビエト連邦の農場の集団化(1930-31年 スターリンの第1次五カ年計画による)の結果として国外追放された。 ドイツ系農家は共産主義政権によってクラーク(kulaks)の烙印を押され[3]、集団農場へ自発的に土地を差し出すことを拒んだ者はシベリアと中央アジアに追放された。 クラークの大量追放は社会的な基準に基づき、人種的な基準に基づくものではなかったが、ドイツ系ロシア人入植者達はおそらく、それ以外のいかなるコミュニティより苦しめられた。1926年の国勢調査によれば、ソビエトの人口1億4700万人のおよそ1.2%がクラークに分類されグラグ(Gulag:ここでは強制労働収容所の意)に追放された。 クラークとしてキャンプに送られたドイツ民族の数はおよそ5万人だった。それは同じ国勢調査によればドイツ系人口123万9000人の4%だった。 ドイツ系は集団化が推し進められている時期に、多数が追放された唯一の民族グループという訳ではなかった。同じ位多くのポーランド人も同じ運命に苦しめられた。 しかし、ドイツ系がソビエト連邦内で国内追放された単一では最大の外国系マイノリティを成していた。 多くのソビエト当局がすべてのドイツ系農家をクラークとして考えていた(平均的なロシア人農民より豊かに見えたためであった事は疑いの余地がない)ため、 ドイツ系コミュニティーに対する大きな偏見があったことが明らかになった。
1941年6月22日のヒトラーによるソビエト連邦への侵略(バルバロッサ作戦)後、ソビエト指導部はソビエト連邦の西部地域からすべてのドイツ民族を立退かせることを決定した。 最高会議は最初の立退きを命令した。だが、決して戻る事は許されなかったので、事実上追放だった。クリミアからすべてのドイツ民族を追放するための行動は1941年8月15日に始まった。 命令には老人は立退かせてはならないとあったが、すべての人が追放された。最初はスタヴロポリへ、続いて南東ウクライナのロストフ・ナ・ドヌへ、だが最後に全員が収容所かカザフスタンの特別入植地(special settlements)に送られた。 追放される者達には荷造りに3-4時間しか与えられず、どこへ向かうのか、どのぐらいの期間留まるのか、どのぐらいの食料が必要か、教えられる事はなかった。多くの者にとって結果は飢餓だった。しかも、混乱のせいで多くの家族がバラバラになった。この時、総計でおよそ6万人のドイツ民族がクリミアから追放された。
黒海ドイツ人の大多数はドイツ軍の迅速な侵攻のおかげで立退きを免れたが、スターリンはそれでもドニプロ川の東に居住するドイツ系を逮捕・追放するのに十分な時間を持っていた。1941年9月25日から10月10日までの期間10万5000人のドイツ民族がこの地域から追放された。 ソビエト政府が1941年8月15日から12月25日までに、 シベリアと中央アジアへ追放した総数で言えばドイツ系ロシア人85万6000人だった。 この数字には共産党とコムソモールのメンバーが数多く含まれている。
枢軸国は戦争開始後数ヶ月間でソビエトの領土を素早く占領したため、ソビエト政権は国土の西部から大半のドイツ民族を立退かせることができなかった。西ウクライナ、ヴォルィーニ、および黒海地域のドイツ系住民の町と村はすべてナチス・ドイツの支配下(当初は軍政その後はナチス党か親衛隊)に置かれた。
1942年から1943年にかけての冬季、スターリングラードでのドイツ軍の敗北で、赤軍はドイツ占領地域の奪還を伴う攻勢を開始した。 SS長官ハインリヒ・ヒムラーはすべてのドイツ民族を引き揚げさせ、第三帝国に帰還させる決定をした。帰還は北コーカサス内に散らばったドイツ系コミュニティーで始まり、1943年2月に11000人が移された。 その直後、4万人のドイツ系ロシア人はドン川とドニプロ川に挟まれた地域から西方へ移された。1943年10月にソビエト軍がドニプロ川に近づいた時、総計およそ3万5000人のコルティツァメノナイトのコミュニティは逃亡せねばならなかった。10月に4万5,000人のヴォルィーニ(西ウクライナ)から来たドイツ民族は再び去らねばならなかった。しかも1944年2月までに、赤軍を止めることはできないことが南ウクライナのドイツ系にとってが明らかになり彼らは避難を始めた。 およそ13万5000人が西部に逃げた。28万人と見積られているドイツ民族はソビエトから成功裏に脱出した。その数は1943年の帝国国勢調査によれば戸籍のあるドイツ系人口のほぼ90%に相当する。
ヤルタ協定の本国帰還に関する付属文書に基づきアメリカとソビエトは 戦争終結時点の各々の国に帰還させることに同意した。 ドイツによってソビエトから移住させられた、ほぼ30万人のドイツ民族の内、およそ20万人が 西ポーランド(以前はドイツの一部)のヴァルテガウ(Warthegau: ライヒスガウ・ヴァルテラントの別名)から(もしくは東ヨーロッパの他の場所から)逃亡してきた時か、占領下のドイツからソビエトへ強制送還された時点で、捕らえられ赤軍によってグラグに送られた[4]。
訳注: 以下、ウクライナ語地名のラテン翻字の多くはドイツ式 参考: ウクライナ語のラテン翻字
ドネツィクの南マキシモヴィチの入植地:
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.