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日本で活動した在日韓国人小説家 ウィキペディアから
(れいら、1924年12月20日 - 2001年8月4日)は、日本で活動した在日韓国人小説家。本名は(チョン・ジュンムン、정준문)。
朝鮮(現・韓国)の慶尚南道咸陽郡生まれ。1934年、当時日本へ出稼ぎに行っていた父に呼び寄せられ渡日。1943年に日本陸軍に特別志願兵として入隊。朝鮮北部で終戦を迎え、北朝鮮の再教育キャンプに収容される。
収容所で左翼に転向し、所長の安吉や南日など北朝鮮政権の要人に気に入られて南朝鮮労働党に入党。平壌で金日成の帰国演説を目撃する[1]。工作員の任務を与えられて故郷の村に帰り、昼は教師を務めながら、夜は地区の南労党幹部として活動する。1947年に韓国警察に逮捕され、尋問中の拷問で背骨を折る重傷を負い、死刑を宣告される。父親が警察幹部に多額の賄賂を使って救命を嘆願したため、人事不省のまま棺桶に入れられ、死亡者として親族に引き渡される。再摘発を恐れ、歩けるようになってから漁船で日本に密航逃亡し、東京の兄の家に寄宿し、調布の米軍基地でクラブマネージャーとして働く。1950年に朝鮮戦争が勃発、英語ができたため通訳として国連軍に志願し従軍。停戦後はふたたび来日、不動産業などを営むが、病気入院を機に執筆活動を始める[2]。
1973年、短編「ルバング島の幽霊」が第4回小説サンデー毎日新人賞推理小説部門の受賞作となり小説家デビュー(選考委員:中島河太郎、黒岩重吾、佐野洋、『小説サンデー毎日』1973年7月号掲載)。1978年には『死者の柩を揺り動かすな』で第31回日本推理作家協会賞長編部門候補。日本推理作家協会編の年刊アンソロジー『推理小説代表作選集 推理小説年鑑』では、1976年版に「怨の複合」、1985年版に「証言」が収録された。在日韓国人の作家では珍しく大衆小説を書き続け、代表作に『わが屍に石を積め』(1980年)や、第1回サントリーミステリー大賞読者賞を受賞した『桜子は帰ってきたか』(1983年)などがある。
また、勝目梓・平龍生・長谷川敬・藤田健三とともに属十三(さっか じゅうぞう)のペンネームで小説を共同執筆し、『後楽園ジャック』(1977年)などを発表している。
ペンネームは、高句麗と新羅から一文字ずつとったもの[3]。日本推理作家協会の理事として、生島治郎らとともに韓国推理作家協会との交流にも尽力した[4]。
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