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日本のミュージシャン ウィキペディアから
高島 信二(たかしま しんじ、1960年10月23日 - )は、日本のミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー。元「オメガトライブ」(OMEGA TRIBE)のギタリスト。神奈川県横浜市出身。血液型はO型。
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オメガトライブの前身となる「きゅうてぃぱんちょす」のギタリストとして杉山清貴(ボーカル)、千住明(キーボード)らと共に、第19回ヤマハポピュラーソングコンテスト(1980年5月)に出場。同コンテストでの入賞をきっかけとし、藤田浩一のプロデュースにより1983年3月に「杉山清貴&オメガトライブ」としてデビューした。
「きゅうてぃぱんちょす」は高島が吉田健二(ギター)と出会って意気投合したことから始まる。杉山がボーカルとして加わった当初はドゥービー・ブラザーズのナンバーを演奏するなど[1]、そのサウンドはロック色の強いものであった[2]。しかしオメガトライブのプロジェクトにあたり、プロデューサー藤田は洋楽リスナーと歌謡曲のマーケット双方をターゲットとする方向性をグループに提示、メンバーはこれを了承しプロジェクトが始動した。
メインとなる曲作りには作曲家・林哲司が起用され、メンバーのオリジナル曲も志熊研三(ディレクターも担当)・松下誠・後藤次利等の編曲家により林のカラーに近いアレンジが施された。目指す音楽はブラコンとフュージョン、AORの要素を持つ新しい「日本のポップス」であった。作詞は康珍化や秋元康が主に担当。藤田によれば、コンセプトは「海の香りのする都会的なサウンド」である[3]。夏・海・リゾートをキーワードにリリースされる曲は、時代の要求にリンクしてヒットチャートを賑わすこととなり、サマーソングのバンドイメージも定着していった[4]。
こうしたプロデュースの方向性とメンバーのオリジナリティとの葛藤もあり[4]、「杉山清貴&オメガトライブ」は1985年に解散する。翌1986年にはカルロス・トシキをボーカルに迎え、第2期プロジェクト「1986オメガトライブ」がスタート、メインの作家を売野雅勇、有川正沙子(作詞)、和泉常寛(作曲)、新川博(編曲)に変更するなど、音楽性も変化を見せた。また、高島をはじめとしたメンバーのオリジナル曲も杉山時代より多く採用されている。この後の「カルロス・トシキ&オメガトライブ」の解散(1991年)により、グループとしてのプロジェクトは終了することとなる。高島はそれまでの間、前身グループ結成~ポプコン出場時期を含めると、一貫して在籍した唯一のメンバーであった。
オメガトライブ解散後はきゅうてぃぱんちょす時代途中から一緒に活動した西原俊次(キーボード)とともに新たなバンド「DOME(ドーム)」(ボーカル:三上哲)を結成し、フジテレビのワイドショー『TIME3 タイム・スリー』の番組テーマ曲となる『女神たちに逢える日』をリリース、その後は「WEATHER SIDE」(ボーカル:高取秀明)で音楽活動を行った。両バンドは藤田の手を離れ、高島と西原のオリジナル作品が中心となっている。また、DOME結成後に展開された「ブランニュー・オメガトライブ」は新井正人ボーカルのソロプロジェクトであり、高島は参加していない。
DOMEの時期には音楽制作を行う「ビーイング」に所属しプロデューサー・ディレクターとしての活動も開始。WEATHER SIDE解散以降は音楽制作が活動の中心となる。プロデューサー・ディレクターとしてBON-BON BLANCO、上木彩矢、WANDS、Naifu他、プロダクションマネージャーとしてTUBE、倉木麻衣他を担当。演奏/コーラスでも多くの音楽制作に参加している。
私生活では2人の子供(1男1女)を持つ父親である。
(プロデューサー、ディレクター、プロダクトマネージャー、演奏/コーラスとして高島が制作に参加したアーティスト)
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