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飯塚 浩二(いいづか こうじ、1906年4月3日[1] - 1970年12月4日[1])は、日本の地理学者。人文地理学が専門で、原典翻訳もある。20世紀の日本を代表する地理学者の一人で。東京大学教授として、長く教鞭もとったが、自然科学系統中心であった東京大学理学部の地理学教室とは一定の距離を置き、地理学のみならず経済学や歴史学、文化学や総合科学の領域で幅広く活躍した。
東京市本郷区(現:東京都文京区)生まれ[2]。父は飯塚啓[1]。作詞家の岩谷時子はいとこ[3]。
1930年に東京帝国大学経済学部を卒業[1]。1932年にフランス政府の給費学生の試験に合格し渡仏[1]。留学してソルボンヌ大学地理学教室にて学ぶ[4]。1934年に帰国後、外務省国際文化事業部嘱託[2]。1941年に立教大学経済学部教授、1943年には東京帝国大学教授に就任。同大の附属東洋文化研究所に勤務。戦後、同所長になる。東大の学部でも人文地理学の講義を受け持った。1967年に定年退官[2]し、名誉教授[1]。札幌大学教授を務めた[2]。
1953年12月、文学博士(京都大学)の学位を取得。題は「人文地理学説史 : 方法論のための学説史的反省 」[5]。1957年には毎日出版文化賞を受賞した[2]。
人文地理学の出身なので、自然地理学方面は少ないが著作や論文は多数。「人文地理学説史」など方法論に言及した著作など地理学全般に大きな影響を与えた。また、歴史や比較文化、日本人論などでも知られ、その内容は多岐におよび、地理学のみならず社会学や歴史学、経済学方面からも注目を受けていた[要出典]。また翻訳でも知られ、中でもポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュの『人文地理学原理』やリュシアン・フェーヴルの『大地と人類の進化』の訳書は長年再版された。人文地理学に関する著作が多いが、社会学や歴史学、方面の人物にも広く読まれた著作であった[要出典]。
1970年12月4日、尿毒症のため東京大学医学部附属病院第一内科にて死去。64歳[6]。
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