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後漢8代 ウィキペディアから
父の安帝の末年から権勢を振るっていた外戚の閻氏や側近の宦官の讒言により一時廃嫡されたが、それを憎んだ宦官の孫程のクーデターにより閻氏らが打倒されたため、皇帝となった。
擁立の功労者である孫程ら宦官たちを侯(地方領主)に封じ、さらに宦官の養子を認め、財産を継承することを許可した。それまで1代限りの権勢であった宦官が、桓帝の時大長秋となる曹騰が引退した以後は、次代の権勢継承が行われるようになった。そのため、後世には後漢の宦官禍は順帝より始まると評されることになる。また、曹騰の養子の子が曹操(魏の太祖)であり、これは制度面とは別の方向からも後世に影響をもたらすことになった。
一方、皇后に梁氏を立て、その父である梁商を大将軍として朝政に参加させた。梁商は専横を振るうこともなく、宦官と融和を図り朝政を運営した。しかし梁商が死去し、その子梁冀への大将軍の世襲を許すと、梁冀は朝政専断を開始し権勢を振るった。順帝は賢臣を起用し、梁冀の専断を抑制しようとしたが、果たせないまま死去した。順帝の死後、梁皇后が「夙夜勤労」と形容されるほど必死に王朝再興のため奔走し、清流派官僚の李固などの人材登用を行ったが、梁冀はそれらの人材を次々と粛清している。順帝の梁冀に対する措置が不十分な結果、その後桓帝までの時代に梁冀が専横を振るう原因を創出している。
外交面では、班超の末子である班勇を登用するなどして、西域の17ヶ国を服属させた。しかし高句麗や羌などからの攻撃を受け、対外的な安定は確立せず、国内においても災害や飢饉が絶えず、各地で反乱が頻発した。
安帝と側室の李氏との間の子として生まれるが、安帝の皇后の閻姫は嫉妬深い人物で、李氏は殺害されてしまった。
永寧(120年)に皇太子に立てられるが、閻皇后や安帝の側近グループの宦官の讒言により、延光3年(124年)に廃されて済陰王となる。
翌延光4年(125年)3月に安帝が巡察で突然に死去し、閻太后と王聖(安帝の乳母)や大長秋江京ら安帝側近グループによる北郷侯劉懿(少帝)擁立が行われるが、劉懿も急死した。閻太后と車騎将軍の閻顕は江京ら親閻氏派の宦官らと謀り、喪を伏せつつ別の諸王の子の擁立を企てた。反閻氏派の宦官孫程ら19名は11月の地震に乗じてクーデターを起こし、閻顕や江京ら閻氏派の勢力を一掃し、劉保を擁立し帝位に就けた。
即位した順帝は閻顕らの処刑を実行し、少帝を王の礼をもって葬った。司空の劉授が免職となった。12月に陶敦が司空に任命された。
永建元年(126年)春正月、閻太后が死去し、2月に埋葬した。また、1月に太傅の馮石、太尉の劉熹、司徒の李郃を免職とし、2月に桓焉を太傅、朱寵を太尉・録尚書事、朱倀を司徒に任命した。隴西の鐘羌が反乱を起こし、護羌校尉の馬賢がこれを破った。7月に来歴を車騎将軍に任命した。8月には鮮卑が代郡に侵攻し、代郡太守の李超が戦死した。10月に司空の陶敦が免職となり、張晧がその後任となった。鮮卑の活動が活発化し、周辺の州郡の兵力の増強が命じられた。
永建2年(127年)2月、鮮卑が遼東と玄菟に侵略した。護烏桓校尉の耿曄が匈奴の南単于を率いて鮮卑を撃破した。6月、母の李氏に皇后を追贈した。西域長史の班勇と敦煌太守の張朗が焉耆、尉犁、危須の三国を討ち、これを破った。7月に日食があり、太尉の朱寵、司徒の朱倀を免職、劉光を太尉・録尚書事とし、許敬を司徒とした。
永建3年(128年)、相次ぐ天災を受けて巡察や救貧政策が採られた。9月、鮮卑が漁陽に侵攻した。12月、太傅の桓焉が免職となった。この年に車騎将軍の来歴が罷免された。
永建4年(129年)正月、順帝は元服した。この年に長雨の被害が五州で出ている。8月、太尉の劉光と司空の張晧が免職となった。9月に龐参が太尉・録尚書事となり、王龔が司空となった。11月、司徒の許敬が免職となった。鮮卑が朔方に侵攻した。12月、劉崎を司徒とした。この年に会稽郡から呉郡を分割した。また拘弥国が使者を送ってきた。
永建5年(130年)正月、疏勒国、大宛国、莎車国が使者を送ってきた。国内では旱や蝗の害が続いた。10月には定遠侯の班始(班超の孫)が陰城公主を殺害した罪で腰斬とされた。
永建6年(131年)2月、河間王の劉開が死去した。9月、護烏桓校尉の耿曄が鮮卑を追討してこれを破り、于闐国の王が使いを送ってきた。12月、日南の葉調国と撣国が使者を送ってきた。
陽嘉元年(132年)正月、梁氏を皇后とした。2月、海賊が会稽郡を襲撃し、句章・鄞・鄮の県長が殺害され、会稽東部都尉が攻撃を受けたため、周辺の県に兵士を集めさせた。3月、揚州の6郡において妖賊の章河らが49の県を襲い、長吏を殺傷した。7月、地動銅儀が製作された。鮮卑が遼東に侵略した。
陽嘉2年(133年)2月、呉郡と会稽郡で飢饉が発生したため、種と食糧を貸し与えた。3月、匈奴中郎将の王稠に命じて左骨都侯らを率いさせて鮮卑を攻撃し、これを破った。4月、再び隴西南部都尉を設置した。京師において地震が勃発し、5月には詔勅が出された。司空の王龔が免職となり、6月に孔扶が司空に任命された。悪天候は収まらず、7月に太尉の龐参が免職となり、8月に施延が太尉に任命された。鮮卑が代郡に侵攻した。
陽嘉3年(134年)3月、益州で盗賊が令長を人質にとり、列侯を殺した。4月、車師後部司馬が後部王加特奴らを率いて匈奴を討ち、大いに破り、季母を捕虜にした。7月、鐘羌が隴西、漢陽に侵攻し、10月に護羌校尉の馬続がこれを撃破した。11月、司徒の劉崎と司空の孔扶が免職となり、黄尚が司徒、王卓が司空になった。武都において塞の内外の羌族が屯官を攻撃し荒らした。
陽嘉4年(135年)2月、宦官が養子を取り封爵を世襲することを初めて認めた。謁者の馬賢が鐘羌を討ち、大いに破った。4月、太尉の施延を免職とした。外戚の梁商を大将軍に任命し、前太尉の龐参を太尉に復職させた。10月、烏桓が雲中に侵攻した。11月、度遼将軍の耿曄を蘭池に派遣し、諸郡の兵に援助させて烏桓を敗走させた。
永和元年(136年)正月、夫餘王が来朝した。10月に承福殿で火災が発生し、順帝は御雲台に避難した。11月、太尉の龐参が罷免された。12月、象林蛮夷が叛いた。元の司空である王龔が太尉になった。
永和2年(137年)正月、武陵蛮が叛き、充県や夷道を侵略した。2月、広漢属国都尉が白馬羌を撃破し、武陵太守の李進が武陵蛮を撃破した。3月、司空の王卓が死去し、郭虔が司空となった。5月、日南の蛮が叛いて郡府を攻撃した。7月には九真、交阯の2郡の兵士が反乱を起こした。8月、江夏の盗賊が邾県の長を殺害した。10月、順帝は長安に行幸して人民に施しをし、未央宮において三輔の郡守、都尉及官属と面会し労をねぎらった。12月には長安に戻った。
永和3年(138年)2月、京師および金城、隴西において地震が起きた。4月、九江の賊の蔡伯流が郡界を犯して広陵郡に至り、江都の長を殺害した。光禄大夫が金城、隴西に慰問に訪れ被害者をねぎらい、税の免除を告げた。閏月には蔡伯流らは衆を率いて徐州刺史の応志に降伏した。5月に、呉郡の丞の羊珍が反乱し、郡府を攻撃して太守の王衡を破り斬った。6月、九真太守の祝良、交阯刺史の張喬が日南の蛮を誘殺し、反乱を平定した。8月、司徒の黄尚が免職となった。9月、劉寿が司徒となった。10月、焼当羌が金城を侵攻し、護羌校尉の馬賢がこれを撃破したが、羌族の反乱は相次いだ。
永和4年(139年)正月、中常侍の張逵、蘧政、楊定らが罪を得て誅殺され、弘農太守の張鳳、安平相の楊皓もこれに連座し獄死した。4月、護羌校尉の馬賢は焼当羌を討伐し、これを大いに破った。8月、太原郡で旱魃が起き、民が離散したため、光禄大夫が使わされ施しと税の免除が布告された。10月、上林苑で狩猟がなされ、函谷関まで往還した。11月、広成苑に行幸した。
永和5年(140年)4月、南匈奴左部句龍大人の吾斯と車紐らが叛き、美稷を包囲した。5月、度遼将軍の馬続が吾斯と車紐を討伐し、これを討った。匈奴中郎将の陳亀が南匈奴の単于を殺害した。且凍羌が三輔を侵略し、県の令長を殺害した。9月、扶風と漢陽に発令して隴道塢を300か所に築き、屯兵を置かせた。太尉の王龔が罷免され桓焉が太尉となったが、その間にも且凍羌は武都を侵略し、隴関を焼いた。西河郡の居を離石とし、上郡の居を夏陽とし、朔方の居を五原とした。句龍の吾斯らは東の烏桓、西の羌胡を引き連れ、上郡に侵略し、車紐を単于とした。11月、使匈奴中郎将の張耽が使わされこれを撃破し、車紐らを降伏させた。
永和6年(141年)正月、征西将軍の馬賢は且凍羌と射姑山において戦ったが、敗死した。安定太守の郭璜が獄死した。閏月には、鞏唐羌が隴西を侵攻し、三輔にまで及んだ。3月、武威太守の趙沖は鞏唐羌を討ち、これを破った。司空の郭虔が免職となり、趙戒が司空となった。5月、匈奴中郎将の張耽が派遣され烏桓、羌胡を天山において大いに破った。鞏唐羌が北地に侵攻した。8月、大将軍の梁商が死去し、河南尹の梁冀が大将軍となった。9月、諸種羌が武威に侵攻した。10月、安定の居を扶風とし、北地の居を馮翊とした。11月、執金吾の張喬を車騎将軍代行とし、将兵を三輔に駐屯させた。
漢安元年(142年)正月、大赦を発布した。8月、南匈奴の左部大人の句龍吾斯は薁鞬臺耆らと反乱を起こした。侍中の杜喬、光禄大夫の周挙、守光禄大夫の郭遵、馮羨、楽巴、張綱、周栩、劉班ら8人が州郡に派遣された。9月、広陵の盗賊の張嬰らが郡県を侵攻した。10月、太尉の桓焉と司徒の劉寿が免職となり、車騎将軍代行の張喬も罷免された。11月、趙峻が太尉、胡広が司徒となった。広陵の賊の張嬰らは年内のうちに太守の張綱に降伏した。
漢安2年(143年)2月、鄯善国が使いを送ってきた。4月、護羌校尉の趙沖と漢陽太守の張貢は焼当羌と参楽において戦い、これを破った。6月、南匈奴において守義王兜楼儲が単于となった。閏10月、趙沖が焼当羌と阿陽において戦い、これを破った。11月、使匈奴中郎将の馬寔は刺客を送り句龍吾斯を殺害した。12月、揚州と徐州の盗賊が焼城寺を攻め、吏民を殺傷した。
建康元年(144年)正月、前年に涼州で180回も地震があったことを受けて詔勅が下され、鎮撫のために光禄大夫の派遣が決定された。3月、領護羌校尉の衛琚は叛羌を追討し、これを破った。南郡と江夏の盗賊が城邑を略奪したが、州郡がこれを追討し平定した。4月、使匈奴中郎将の馬寔が南匈奴左部を攻撃しこれを破ったため、胡羌や烏桓はことごとく降伏した。皇子の劉炳(沖帝)を皇太子とし、建康と改元し大赦を天下に発布した。8月、揚州と徐州の盗賊である范容、周生らが城邑を略奪したが、御史中丞の馮赦が遣わされ、州郡の兵士を督してこれを討った。
順帝は玉堂前殿にて崩御した。30歳であった。
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