雛の宿
三島由紀夫の短編小説 ウィキペディアから
三島由紀夫の短編小説 ウィキペディアから
『雛の宿』(ひなのやど)は、三島由紀夫の短編小説。三島がいくつか書いた怪談系統の作品の中の一つで、怪奇小説とみなされることもある[1]。1953年(昭和28年)、雑誌『オール讀物』4月号に掲載された[2]。文庫版は新潮文庫の『女神』に収録されている[3]。翻訳版はイタリア(伊題:La dimora delle bambole)で行われている。
大学2年の学年試験を3月2日に終え、「僕」は3日の桃の節句の夕方4時ごろ銀座の町を歩いていた。ふと入った数寄屋橋近くのパチンコ屋で、隣の台におさげ髪の女学生がいた。「僕」は、去年死んだ妹と同年齢の少女に興味を持ち、おぼつかない手つきの彼女に声をかけた。一緒に店を出ると、少女は無邪気に寄りそってきた。神田キヨ子と名乗った少女は、自分の家に「僕」を招いた。
武蔵小金井駅で下りて暗い野道ゆき、キヨ子の家についた。家にはキヨ子の母という初老の女がいて、大きな雛壇が飾られていた。雛祭りにもてなされた膳は灰皿くらいの小さなもので、ピンセットで作ったような料理がミニチュアの椀や皿に並んでいた。白酒に酔ったキヨ子は眠くなり退室した。帰ろうとする「僕」は母親に強く引きとめられ、泊まるように勧められた。案内された部屋には、キヨ子が裸で蒲団に横たわって待っていた。
その後、秋にその家を見に行った時、近所の雑貨屋のおやじから、2人が色きちがい母子だという噂を「僕」は聞いた。神田家の中を覗いて見ると2人は前と同じまま、雛壇の前に微動もしないで座っていた。「僕」はそこを急いで立ち去った。
『雛の宿』が発表された1953年(昭和28年)当時に、三島とよく銀座のバーに通っていたという矢代静一は、この短編に書かれたキヨ子の家での出来事と同様の体験を自分もしていたためにびっくりしたとし[4]、キヨ子の元となったと思われるバーの少女ホステスについて語っている[4]。そして矢代は、「二人ともまったく同じ手口で、二十歳になるやならずの女の子にたぶらかされたのが、たまらなくおかしい」として、「どんな些細な出来事でも、ただちに拾いあげ、ふくらませ、小説に仕立てあげた三島の勤勉振りがなつかしい」と述懐している[4]。
少女はパチンコ屋にはいなかった。あるバアで働いていた。童女といった趣だったが、稚性よりも痴性にまさっていた。口ごもったりはするが、消極的誘い上手であった。口説かれたのは自分だけだと信じていた私は、がっかりした。「してみると、三島もやはり誘われたのだ」。私は、少女の裸を見たとき、まったくうろたえ、すぐに退散し、やっと終電に間に合った。というのは、隣の部屋に陰気な男のひそひそ声が聞えて、こわかったからである。三島はどうだったのだろう。若いころは不器用なところがあったから、寝たふりをしたところをみつかって、ゆすられたかも知れない。 — 矢代静一「旗手たちの青春――あの頃の加藤道夫・三島由紀夫・芥川比呂志」[4]
東雅夫は『雛の宿』について、一見すると心霊モチーフとは無縁に思われる怪作だが「ひとたび視点を変えて眺めるとき、にわかに異界の霊気を放ちはじめる」と述べ[1]、「謎めいた母娘が暮らす家に招じ入れられる『雛の宿』の語り手は、待ち受ける女たちの側からすれば、節日の夜に去来する一種のマレビトめく存在であろう」と解説している[1]。
油野良子は、話者が〈童話めいた話〉と最初に断わっているものの、「むしろ鏡花の世界に通ずるような甘美の中に鬼気せまる不気味さを伴った作品」だとし[5]、文体自体は通俗的で格調高くはないが、三島文学の「物語的・幻想的」特徴の一側面が見られるとしている[5]。
森かをるは、話者の〈僕〉が冒頭で自分が日頃〈大法螺吹き〉であると言っていることから、キヨ子の存在も、宿での最高の一夜も〈僕〉の願望が生んだ「想像力の産物」ではないかとして[3]、「僕という男雛が帰ってくるまで雛祭りをして待ち続ける女雛の物語は、悲劇的であるだけに甘く切ない」と評している[3]。
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