雄作戦(ゆうさくせん)とは、第二次世界大戦における太平洋戦争(大東亜戦争)において、日本海軍の軍令部が1944年前半に企画し、連合艦隊が中部太平洋方面でアメリカ海軍の空母機動部隊および前進根拠地に対し実施予定だった奇襲作戦である。1944年3月末、パラオ大空襲にともない連合艦隊司令部が遭難する海軍乙事件が発生し、実行不能となり消滅した。
1943年(昭和18年)4月18日の海軍甲事件により、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した[8]。後任の古賀峯一長官と福留繁参謀長以下の新司令部は、連合国軍の攻勢に対しZ作戦を立案した[10]。
同年10月下旬、連合軍はカートホイール作戦によりソロモン諸島戦線とニューギニア戦線で勝利を重ねた末、ブーゲンビル島に上陸してビスマルク諸島(ニューブリテン島ラバウル、ニューアイルランド島カビエン)に迫った。日本海軍の連合艦隊はろ号作戦を発動し、トラック泊地を根拠地としていた空母機動部隊より[注釈 1]母艦航空兵力をブーゲンビル島沖航空戦に投入、大幅に消耗してしまう。
日本海軍の空母機動部隊は海上作戦が不可能となった[注釈 2][注釈 3]。
一方のアメリカ海軍の太平洋艦隊(司令長官チェスター・ニミッツ提督)は、エセックス級航空母艦やインディペンデンス級航空母艦を基幹戦力として空母機動部隊を整備し、1943年後半には中部太平洋のギルバート諸島に対し反攻作戦を開始した(マキンの戦い、タラワの戦い)[注釈 4]。
空母機動部隊を活用したアメリカ海軍の中部太平洋での攻勢に対し、ラバウル空襲とろ号作戦で消耗した連合艦隊は対応できず、12月以降もアメリカ太平洋艦隊の猛攻に晒された[注釈 5][注釈 6]。
連合軍の飛び石作戦と、その原動力となったアメリカ海軍の空母機動部隊は、日本軍の絶対国防圏にとって重大な脅威であった[22]。このような状況下、敵空母機動部隊がマーシャル諸島の前進根拠地に補給や休養のため停泊中のところを奇襲して打撃を与えようと企図した作戦計画が、雄作戦である[注釈 7]。第一機動艦隊と基地航空部隊、さらに潜水艦部隊も投入予定であった。
1944年(昭和19年)1月末、アメリカ海軍の大艦隊はマーシャル諸島に来襲[24](フリントロック作戦)、クェゼリンの戦いの末に同諸島を占領して、内南洋を制圧した。そしてクェゼリン諸島のメジュロ環礁を艦隊の根拠地に整備した。アメリカ海軍は遠からず中部太平洋方面で攻勢に出ると予想され、それに対処するため大本営が立案したのが雄作戦である[注釈 7]。アメリカの策源地であるマーシャル諸島泊地を目標として、真珠湾攻撃を再現する構想であった。すでにアメリカ軍に油断はないため攻撃は夜間に実施、しかも航空部隊の搭乗員が未熟であることから月夜の奇襲を行う。源田によれば、作戦は以下のようなものであったという。
- 日本海軍の空母機動部隊は青森県陸奥湾に集結し、マーシャル諸島群島北方からメジュロ環礁を急襲する。
- 基地航空部隊はマリアナやカロリン方面に展開、南鳥島やウェーク島を前進基地として使用し、大型機で空襲をおこなう。
- 先遣部隊(第六艦隊)の潜水艦はあらかじめメジュロ環礁周辺に進出し、特四式内火艇(潜水艦に搭載可能な水陸両用戦車)で泊地水中攻撃も行う[29]。
大本営海軍部(軍令部)において源田実航空部員と藤森康男潜水艦部員を中心に、雄作戦の立案が行われた[30]。
当時の日本海軍では艦隊や航空部隊の再編がおこなわれており、1944年(昭和19年)2月15日に第一航空艦隊(司令長官角田覚治中将、参謀長三和義勇大佐、作戦参謀淵田美津雄中佐)が新編された[注釈 8][注釈 9]。
同時期には連合艦隊旗艦「武蔵」がトラック泊地より横須賀に帰投して、古賀峯一大将以下連合艦隊司令部が大本営と打ち合わせをおこなう[注釈 10]。折しも2月17日のトラック島空襲でチューク諸島は壊滅的被害を受け、連合艦隊は前進根拠地をトラック泊地からパラオに変更した[注釈 11]。3月1日には第一機動艦隊(司令長官小沢中将、第三艦隊長官兼務)が新編された[注釈 3]。「雄作戦」はこのような状況下で立案された。
3月22日、軍令部総長官邸で研究会が行われる。軍令部次長伊藤整一中将は「着想には賛成する。しかし自分の力にあった作戦でなければならない、奇襲としてはパラオに集合した際にばれ2,3日前に敵が策を講じる、うまくいっても敵は補充が可能である」と意見し、マリアナ~カロリンでの迎撃後、追撃戦として行うことを提案する。塚原二四三軍令部次長は「マリアナカロリンで確実に勝てるとは言えないため奇襲ができるならしたい、ただ作戦に相当無理がある、機動艦隊で敵航空母艦を目標として身軽にしてはどうか」と意見した。源田部員は「第61航空戦隊だけなら9~7隻撃破できるが全滅する、最も確実安全な方法は銀河数機によるゲリラ戦で累積効果を狙うことであるが、時間はかかる」と意見する[43]。
同年3月25日から26日、山本親雄軍令部作戦課長が源田部員と藤森部員を連れてパラオ諸島に赴き、連合艦隊司令部に作戦説明をおこなった。「1944年6月8日満月の日に決行の予定」として、おおむね合意は得られていた。しかし冒険的な計画であり、まだ燃料、航空戦力持続力、水上部隊準備、攻略各戦など検討を必要としていた[43]。源田は連合艦隊司令部の雰囲気について「この作戦には若干批判的な空気が多く、結論を持ち越しにして我々は司令部を辞した。」と回想している。
同時期、アメリカ空母機動部隊接近の情報により、パラオ所在の連合艦隊は退避を開始した。3月29日、「武蔵」と第17駆逐隊は臨時に遊撃部隊(第二艦隊)へ編入されていたが[注釈 12]、これをアメリカ軍潜水艦「タニー」が襲撃し、被雷した「武蔵」が小破した[注釈 13]。
つづいて生起した3月30日のパラオ大空襲に起因して、二式飛行艇に分乗してパラオからミンダナオ島ダバオへ移動しようとした連合艦隊司令部は、3月31日の海軍乙事件で遭難した[注釈 14]。海軍乙事件による混乱により、雄作戦は実施されなかった[55]。
軍令承行令により次席指揮官の南西方面艦隊司令長官高須四郎中将(海兵35期)が[56]、連合艦隊の作戦指揮をとる[注釈 15]。
このあと5月3日付で再編された連合艦隊司令部(司令長官豊田副武大将[53]、草鹿龍之介参謀長)は、麾下の航空艦隊や中部太平洋方面艦隊と共に「あ号作戦」を準備し、雄作戦は実現しなかった。
なお特四式内火艇による上陸奇襲計画は竜巻作戦として、「あ号作戦」に組み込まれた[63][注釈 16]。マリアナ沖海戦やサイパン陥落、テニアンやグアム失陥後、ウルシー環礁の艦隊根拠地と空母機動部隊に対し、航空作戦として丹作戦が、人間魚雷回天による特攻が玄作戦として実施された。
山本親雄は「作戦のやり方は連合艦隊司令長官の方寸にあり、大本営は強要するべきものではない。しかし、中央でなければ判らぬことも多いので大本営として着想を示し、この実行の具体策は最高指揮官に一任する方針であった」と語っている[67]。源田実は戦後「今考えると珊瑚海海戦あたりから敵にこちらの情報が読まれている節があり実施したとしても奇襲が成立せず当方が予期したような成果を挙げることが出来たか疑問である」と話している。
注釈
ろ号作戦で第一航空戦隊が大幅に消耗、1943年末以降に第二航空戦隊をラバウル方面へ転用して消耗した。
第一機動艦隊の編成[17] 第三艦隊の第一及第二航空戰隊はソロモン方面敵反攻の開始に伴い同方面基地航空作戰強化の為昭和十八年十一月以後逐次ラバウル方面に使用されて其の戰力の大半を失い、何れも母艦部隊として海上作戰不能の状態に陥つていた。仍て大本營は、昭和十九年二月のトラツク空襲を契機として兩戰隊を内地及シンガポール方面に転用し整備訓練を急がしめつつあつた。一方母艦部隊を有しない第二艦隊は開戰以来概ねそのままとなつていたので、大本營は聯合艦隊水上部隊の綜合威力發揮を容易ならしめる為、三月一日第二及第三艦隊を以て第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)を編成した。同日に於ける此の艦隊の編成は次の通りであつた。(編制表略)
中部太平洋方面艦隊及第三十一軍の新設[18] 昭和十八年秋南東ラバウル方面に於ける彼我航空兵力の差が次第に大きくなつて来たので、我が海軍は母艦航空兵力をも同方面に増加してて戰勢の挽囘を図つたが、敵の進攻速度を若干遅延せしめ得たに過ぎなかつた。他方敵はマーシャル方面及ニューギニア方面の反攻を強化し昭和十九年二月い日マーシャル諸島の中継基地クエゼリン島に来攻して同島を占領すると共に続いてブラウン諸島に進攻し二月十七日には始めてトラツク諸島に機動部隊を以てする空襲を実施し、我が南東方面作戰の背後を脅威するに至つた。更に二月二十三日にはサイパン テニヤン島方面の初空襲を実施すると共にアドミラルティ諸島をも占領するに至り、敵の進攻速度は次第に増加し、我が防備上の要城たる内南洋に対する敵の攻撃は時日の問題となつて来た。(以下略)
三、連合艦隊司令部の遭難[21](遭難の大本営発表略)二月十七日トラツクに対して行われた米機動部隊の大空襲は第二の眞珠湾といわれた程の大損害を日本海軍に与えた。その被害は沈没、巡洋艦二隻、驅逐艦四隻、輸送船二六隻、飛行機の喪失約一八〇機に達した。敵は更に余勢を驅つてサイパン近海に出現しマリアナ諸島一帶は非常なる危險にさらされた。この時の敵機動部隊は大型空母九隻を中心とするもので、米海軍の新造艦多數が戰列に加つていることが明かになつた。この敵の傍若無人の行動に反し日本海軍の航空兵力は戰力愈〃低下して有效なる攻撃を加え得なかつた為に敵は三月三十日遂に内南洋の西端パラオの空襲を開始し四月一日まで三日間連続の攻撃を行つた。当時パラオは内南洋に於ける唯一の安全泊地として連合艦隊旗艦武藏を始め補助艦艇の主力が碇泊していたがその大部は避退に成功し輸送船十数隻が撃沈された。
連合艦隊司令長官古賀峯一大将は艦艇を避退せしめた後自らは幕僚と共にパラオの陸上に移つたが三十一日夕明四月一日には敵上陸の虞あるものと判断し、全局の作戰指導の為比島のダバオに移動することに決心し、艦隊司令部の首腦は同夜大型飛行艇二機に分乗し午后十時頃同地を出発した。一番艇には古賀長官以下、二番艇には福留参謀長以下が搭乗し、夜間飛行を続けてミンダナオ島附近まで進出したのであつたが、天候不良の為一番艇は行方不明となり二番艇は比島のセブ島附近の海上に不時箸し福留参謀長以下約十名の生存者が陸軍守備隊に収容せられた。一番艇は其の後全く消息を斷ち古賀長官以下は殉職と認定せられたのであつた。(以下略)
雄作戰構想[23] 一方敵はメジュロ等の前進根據地を急速に強化中と認められ、遠からざる将来に大規模な攻勢作戰を企図しているものと判斷された。斯る情勢に処して日本海軍は、敵反攻の核心たる空母を基幹とする敵機動部隊の撃滅を先決問題となし予てより之が好機を覗いつつあつた。
即ち大本營海軍部は既に早くも三月、敵の来攻に先だち敵機動部隊の主力を其の前進根據地メジュロに於て先制奇襲すべく雄作戰なるものを立案して聯合艦隊司令部と連絡中であつた。その要旨は我第一機動部隊及基地航空部隊の大部約一,〇〇〇機並に潜水艦部隊を以て、五月上旬又は中旬、東部内海地方面より出撃して主として小笠原、マーカス及ウエイキ島方面よりメジュロに進撃するにあつた。然し此の計画は三月末の聯合艦隊首腦部の遭難により中止の已むなきに至つた。(おわり)
新編直後の2月23日、アメリカ軍空母機動部隊のマリアナ諸島空襲で第一航空艦隊は大打撃を受けてしまう。
(中略)[34] 以上の状況に対処する為昭和十九年初頭大本營は中部太平洋方面の防備を更に速に強化するに決し、逐次処置を執つた。即ち海軍としては二月上旬連合艦隊の水上部隊主力の前進根據地をトラツクからパラオに変更し、連合艦隊司令部も亦同所に於て作戰指揮を執り、又二月中旬前年七月以来大本營直轄部隊として編成訓練中の第一航空艦隊主力を内南洋及比島方面に進出待機して連合艦隊の作戰に協力せしめた。この航空部隊は三月十五日には連合艦隊に編入せられ又ラバウル方面から後退せしめた基地航空部隊を改編して内南洋方面に配備した。(以下略)
「武蔵」(連合艦隊司令部)と駆逐艦3隻(白露、満潮、藤波)は2月24日に呉を出発、2月29日にパラオ到着。
(昭和19年)[45]〔 二十九日|一四二五 GF各(長官)|聯合艦隊信電令作第七三一号 一、一一五七敵ノ航空母艦、戰艦各数隻 巡洋艦、駆逐艦各数隻パラオノ一三八度三八〇浬針路二九〇度速力一五節明日パラオ空襲ノ算大ナリ YBハ取敢ヘズ空襲ヲサクルガ如ク行動スベシ武藏 第十七駆逐隊ヲYBニ編入ス.|無電 〕
古賀長官は行方不明となり、殉職認定[53]。福留参謀長や山本祐二参謀は一時的にゲリラの捕虜になって情報が流出した。
一、決戰の機迫る[58] 四月に於ける海軍の態勢 パラオより比島に向う移動途中に於ける聯合艦隊司令部主要要員の殉職に伴い、昭和十九年四月、聯合艦隊の指揮は在スラバヤの南西方面艦隊司令長官高須四郎中将が之をとつていた。/ マリアナ、カロリン方面に於ては、第一航空艦隊が鋭意作戰準備の完成に努めつつあつた。又中部太平洋艦隊は、第四艦隊、第十四航空艦隊(第二十二及二十六航空戰隊基幹)及陸軍の第三十一軍を指揮して中部太平洋方面の防備を固めつつあつた。濠北方面の防備は南西方面艦隊が之に当つていた。三月一日編成されたところの第一機動艦隊の主力はシンガポール及ルンガ方面に於て、又その一部は内地に於て及次期作戰準備に努めていた。(以下略)
(二)潜水部隊[64] 潜水艦は奇襲作戰、哨戒及追撃に使用する奇襲作戰はマーシャル群島方面の泊地に碇泊中の敵機動部隊に對して行ふもので龍卷作戰と呼稱した/使用兵器は特四戰車と呼ばれた一種の魚雷艇であつてこの兵器の輸送に大型潜水艦五隻を使用する様に計畫した(以下略)
出典
戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期359、364-367頁
戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期364-366頁
戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期367頁
戦史叢書71大本営海軍部・聯合艦隊(5)第三段作戦中期366-367頁
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- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍航空概史』 第95巻、朝雲新聞社、1976年3月。
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