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南西方面艦隊(なんせいほうめんかんたい)は[1]、大日本帝国海軍によって1942年(昭和17年)4月10日[2]に編制された艦隊である[3]。 軍隊符号はGKF[4]。 連合艦隊軍隊区分では、南西方面部隊(昭和17年5月20日、南方部隊より改称)となる[5]。担当地域は前線から離れていたものの、太平洋戦争後半の連合軍フィリピン反攻の際は最前線部隊として交戦した。
南西方面艦隊は、太平洋戦争(大東亜戦争)前半の1942年(昭和17年)4月10日に[3]、南西方面(東南アジア、フィリピン方面)の全般作戦を担当するために編制された日本海軍の艦隊である[1]。後発の方面艦隊は陸上・水上艦隊と航空艦隊からなるが、南西方面艦隊は第一南遣艦隊などの警備艦隊の集合体である。 編制当初、第一南遣艦隊[6]・第二南遣艦隊[7]・第三南遣艦隊[8]を主力部隊としており[3]、連合艦隊に所属した[1]。なお第二南遣艦隊司令長官高橋伊望中将が南西方面艦隊司令長官を兼任し[9]、艦隊司令長官兼任は翌年4月まで続いた。
その後、南西方面艦隊には1943年(昭和18年)9月20日に新編の第13航空艦隊が編入された[3][10]。同年11月30日、新編の第四南遣艦隊を編入した[3][11]。
1944年(昭和19年)3月に第九艦隊を(司令部玉砕により7月10日解隊)[3][12]、8月に第一航空艦隊を編入した[3][13]。また南西方面艦隊司令長官三川軍一中将が、第三南遣艦隊司令長官[9]を兼務することになった。 10月以降のフィリピンの戦い生起時の南西方面艦隊司令部(第三南遣艦隊司令部兼任)はルソン島のマニラに司令部を置いており、レイテ沖海戦・レイテ島の戦い・ミンドロ島の戦い・礼号作戦等に参加・指揮した。またレイテ島増援作戦中多号作戦の11月1日に、司令長官交替(三川中将から大川内傳七中将)[9]という事態になった。11月中旬には第二航空艦隊[3][14]、12月初旬に第五艦隊[3]を編入した。
1945年(昭和20年)1月初頭以降のルソン島の戦いにより南西方面艦隊は孤立し、第一南遣艦隊・第二南遣艦隊・第13航空艦隊は2月5日に新編された第十方面艦隊に所属した[3][15]。同年5月8日、第一航空艦隊は連合艦隊に編入される[3]。5月29日以降、南西方面艦隊は連合艦隊からのぞかれ大本営直轄部隊となり(引き続き南西方面艦隊司令長官が第三南遣艦隊司令長官を兼職)[1][16]、終戦を迎えた。
1942年(昭和17年)3月初頭の南方作戦完了後、フィリピン・インドシナ・インドネシア・マレー方面の哨戒・輸送・警備は別個の艦隊によって行われていた。 第一南遣艦隊(昭和17年1月3日、南遣艦隊より改称[17][18]。新編時司令長官小沢治三郎[9]中将)はマレー半島・仏印・ビルマ・ボルネオ方面を担当する[6]。 第二南遣艦隊(昭和17年3月10日、第三艦隊より改編[19][20]。新編時司令長官高橋伊望[9]中将)は、蘭印地区・豪北方面作戦を担当する[7]。 第三南遣艦隊(昭和17年1月3日新編[18]、新編時司令長官杉山六蔵[9]中将)はフィリピン方面を担当する[8]。 南西方面艦隊は、これら地域の作戦を統括指揮する目的で編制された。4月10日、昭和17年度海軍戦時編制の実施により、南西方面艦隊が新編される[2]。第二南遣艦隊司令長官高橋伊望中将が、南西方面艦隊司令長官を兼任した[9]。また新編の第一海上護衛隊も[2]、南西方面艦隊直轄部隊となった。
1943年(昭和18年)4月15日、海軍は戦時編制の改定を実施する[22]。まず第21航空戦隊を南西方面艦隊からのぞき、第11航空艦隊に編入した[22]。また第二南遣艦隊司令部を設置し[22]、岩村清一中将が第二南遣艦隊司令長官に任命された[9]。高須中将は南西方面艦隊長官専任となった[9]。 9月20日、日本海軍は第23航空戦隊と第28航空戦隊で第十三航空艦隊(基地航空艦隊)を新編し[23]、南西方面艦隊に編入した[10]。高須中将(南西方面艦隊長官)が第13航空艦隊司令長官を兼任した[9][23]。また連合艦隊の軍隊区分により、第13航空艦隊で第3基地航空部隊を編成した[23]。
11月15日[24]、海上護衛戦を統轄する海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将)が新編されると[25]、第一海上護衛隊は南西方面艦隊からのぞかれて、海護総司令部の麾下となった。 11月30日[26]、日本海軍は第二南遣艦隊を二分割し、東インドネシアに第四南遣艦隊(司令長官山縣正郷[9]中将)を新設した[11]。第二南遣艦隊の担当は、蘭印地区にかわった[7]。第四南遣艦隊も南西方面艦隊に編入され[11]、連合軍の北上に備えた。しかし連合軍は直接フィリピンに上陸、第三南遣艦隊隊のみが迎撃する事態となった。
1944年(昭和19年)3月25日[27]、南東方面艦隊より第九艦隊(司令長官遠藤喜一[9]中将、ニューギニア北岸中部以西担当)が南西方面艦隊に編入された[12]。だが第九艦隊はまもなく玉砕し、7月10日に解隊された[12][28]。
6月18日[29]、南西方面艦隊と第二南遣艦隊司令長官の人事がおこなわれる。南西方面艦隊司令長官は高須中将から三川軍一中将(当時、第二南遣艦隊司令長官)に交代した[9][29]。後任の第二南遣艦隊司令長官は、河瀬四郎中将であった[9][29]。 8月15日より、三川中将(南西方面艦隊司令長官)は第三南遣艦隊司令長官[9]を兼任することになった。
また同時期の日本海軍はテニアンの戦いで玉砕した第一航空艦隊を再編し(8月7日[30]、司令長官寺岡謹平[9]中将親補)、8月10日附で南西方面艦隊に編入した[13][31]。だが寺内中将の第一航空艦隊は9月10日にダバオ誤報事件を起こしてしまう[32]。10月20日[33]より大西瀧治郎中将が一航艦司令長官となった[9]。
10月中旬以降の連合軍反攻作戦および捷一号作戦時(フィリピンの戦い)、ルソン島マニラに司令部を置く南西方面艦隊は麾下部隊を展開し、フィリピン配備の日本陸軍(南方軍・第14方面軍)と共に連合軍を迎撃した。レイテ島地上戦にともなう緊急輸送作戦多号作戦[34]実施中の11月1日[35]、南西方面艦隊司令長官は三川中将から大川内傳七中将に交代した[9]。 11月15日[36]、台湾とフィリピンに展開していた第二航空艦隊(司令長官福留繁中将)が、南西方面艦隊に編入された[14]。この措置により、南西方面艦隊麾下の航空艦隊は3個艦隊(第一航空艦隊・第二航空艦隊・第十三航空艦隊)となった[36]。 12月5日[37]、戦時編制の改定により北東方面艦隊所属の第五艦隊(司令長官志摩清英中将)が南西方面艦隊に編入された[3]。
1945年(昭和20年)1月初頭、連合軍は大船団をルソン島リンガエン湾に派遣し、6日より同湾への艦砲射撃を開始した[38]。 1月8日、日本海軍は第13航空艦隊を南西方面艦隊よりのぞき(大川内長官は兼務職をとかれ、南西方面艦隊長官専任)[39]、第一南遣艦隊司令長官田結穣[9]中将の兼任とした[10]。同日附で第二航空艦隊も解隊された[14][39]。
マニラの海軍守備隊は陸軍の方針に従わず、2月初頭以降のマニラ市街戦[40]により壊滅、第31特別根拠地隊司令官岩淵三次少将(マニラ海軍防衛部隊指揮官)は2月下旬に戦死した。
2月5日[41]、遊兵化した東南アジア方面の部隊を再編するため、日本海軍は第五艦隊(司令長官志摩清英中将)を解隊する[42]。第五艦隊残存戦力を基幹として、第十方面艦隊(司令長官福留繁中将)[9]が新編された[15]。第一南遣艦隊・第二南遣艦隊・第四南遣艦隊・第十三航空艦隊[10]は第十方面艦隊に移管した[15][41]。 3月10日には第四南遣艦隊が解隊された[11][43]。
1945年(昭和20年)5月8日[44]、第一航空艦隊は連合艦隊に復帰した(6月15日附で解隊)[13]。 5月29日に小沢治三郎中将が連合艦隊司令長官に就任した[45]。小沢中将と大川内中将(南西方面艦隊司令長官)は海軍兵学校同期生だったが、大川内の方が先任順位が上であった。先任者を後任者の指揮下に入れないという日本海軍の慣例のため、南西方面艦隊は小沢の指揮系統からはずされて、大本営直轄部隊に切り替えられた[1][45]。最終的に南西方面艦隊が指揮したのは、第三南遣艦隊のみになっている。終戦時にはセブやミンダナオなどの主要拠点を失い、壊滅状態に陥っていた。
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