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大阪府堺市にある神社 ウィキペディアから
開口神社(あぐちじんじゃ)は、大阪府堺市堺区にある神社。通称「大寺」(おおてら)。地元では「大寺さん」とよばれ親しまれている。堺南組(大小路以南)の氏神社。式内社で、旧・社格は府社。堺は与謝野晶子の生誕の地でもあることから、開口神社では「晶子恋歌みくじ」が用意されている。[1]
社伝では、神功皇后の三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝える。
また延喜式神名帳に和泉国大鳥郡24座のうちの一社として記載されていて、この延喜式神名帳では「開口」を「アキクチ」と読ませている。この「アキクチ」が訛って「アグチ」となって現在に至る。摂津国の住吉神社(住吉大社)と古くから関係が深く、天平3年(731年)の記録では「開口水門姫(あきぐちみなとひめ)神社」と書かれている。
天平16年(744年)には行基によって境内に薬師如来を本尊とする密乗山念仏寺が建立されるが、やがて神仏習合化が進み、当社の神宮寺となった。平安時代には空海の影響で念仏寺は真言宗の寺院となるが、空也ともゆかりがあり、密教や浄土教の道場にもなって活況を呈し、念仏寺は「大寺」と通称されるようになり定着するに至った。
承平2年(932年)には神階が正五位上まで昇った。古代から中世にかけて、当社付近は開口村と呼ばれていたが、天永4年(1113年)、原村の素盞嗚神、、木戸村の生国魂神を合祀して「開口三村大明神」と呼ばれ、崇敬されるようになった。
当社と念仏寺の両者とも津守氏の支配下にあったが、堺が商業港として発展し、商人勢力が台頭してくると、商人たちの自治に支えられるようになった。南北朝内乱時代の康応元年(1389年)に豪商野遠屋周阿弥が田地を寄付して以来、田地の寄進が相次いだ。
応永32年(1425年)に朝廷の祈願所となり、応永34年(1427年)には室町幕府の祈願所となった。
天文4年(1535年)には念仏寺の築地修理料として堺南荘の豪商110余名が一人当たり一貫文ずつの銭を寄進しているが、このなかには茶人の武野紹鴎、千利休(「せん与四郎」名義)、奈良春日神社(春日大社)の石灯籠にも名を残す魚屋弥次郎といった有名人の名も記されている。これら豪商から選ばれた10数人が納屋衆、会合衆となって堺の自治組織の運営に当たり、開口神社の祭礼で重職を勤めたのである。
明治に入ると神仏分離令によって念仏寺は廃寺となるが、寛文3年(1663年)に建築された三重塔はそのまま残された。
1873年(明治6年)に郷社に列し、1902年(明治35年)に府社に昇格した。
1945年(昭和20年)7月10日に行われた第6回大阪大空襲(堺大空襲)により本殿や三重塔[2]など悉く焼失したが、貴重な記録類は被害を免れた。現在の社殿は1961年(昭和36年)の再建である。南側には宿院があり、住吉大祭の神輿の御旅所となっている。
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