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日本の岩手県(陸奥国)にあった郡 ウィキペディアから
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
分割以前の陸奥国内で津軽郡に次いで面積が大きく、陸中国では最も面積の大きい郡であった。
『続日本紀』霊亀元年(715年)の記事に見られる「閇村」、『日本後紀』弘仁2年の(811年)の記事に見られる「幣伊村」が後の閉伊郡につながるものとされる。津軽石大森遺跡(現・宮古市津軽石)からは古代の分銅とみられる物が出土しており、陸奥国府への貢納物を計量する際に使用されていた可能性も指摘されている。
延久2年(1070年)、陸奥守の源頼俊らにより「閉伊七村山徒」が制圧されたと伝わる(延久蝦夷合戦)。この合戦を契機に郡制が敷かれ、『日本国』の内に組み込まれたと見られている。
奥州藤原氏の支配の下、荘園公領制的な支配に組み込まれたと見られ、閉伊郡には中尊寺領として免田も置かれた。川原遺跡(現釜石市鵜住居)や田鎖車堂前遺跡(現宮古市田鎖)からは平泉で出土したのと同様の中国産白磁、常滑焼・渥美焼・水沼窯製品、かわらけなどが出土し、これらの遺跡は奥州藤原氏関連の遺跡であると見られている。また後年に成立した文献(『奥南落穂集』)ではあるが、12世紀後半になると藤原秀衡配下の人間として閉伊何某の人名が見られる。奥州合戦後は鎌倉御家人の閉伊氏の勢力下となる。
元弘の乱で鎌倉幕府が崩壊すると、閉伊郡は陸奥国司となった北畠顕家の代官として下向した南部師行の統制下となる。以後南北朝時代から戦国時代にかけて南部氏の勢力が伸展する。南部氏は郡中央の千徳城に一戸流千徳氏を配置し、佐々木流田鎖氏(閉伊氏)、三浦流小本氏(小本正吉の家系)、小笠原流船越氏らを「閉伊衆」として掌握したとみられる。
江戸時代になると盛岡藩の記録に石高や属する村名が見られる(元禄南部郡村高帳等)。
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