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江戸時代後期の医師 ウィキペディアから
長与 俊達(ながよ しゅんたつ、寛政2年(1790年)頃 - 安政2年2月26日(1855年4月12日))は、江戸時代後期の医師。日本での牛痘法による種痘成功の先駆の一人として知られる。
生誕は寛政2年(1790年)頃*資料により、寛政元年1789年、1791年とするものがある。*大村市史編さん委員会、日本大百科全書(ニッポニカ) [注 1]、肥前国大村藩の侍医長であった長与俊民の二男として、肥前・大村に生まれる*大村市史編さん委員会[1][4]。8歳の時に、天然痘に罹患・死去した兄の衣服を身にまとう種痘(痘衣法)を受けた。これにより、天然痘の免疫を獲得したとされる。[2]。
文化7年(1810年)に、父・俊民より家督を相続し、藩医となる[1]。当初は漢方医学を学び[4][5]、匙医(藩医の最高位)にも任ぜられたが[5]、『解体新書』に触発され[2][5]、長崎で西洋医学を学び[2]、特に種痘に注力した[4]。 文政3年(1820年)*文政13年(1830年)とする資料もある。[1][注 2]、大村近郊の古田山に種痘所を開設[1]。当初は「人痘法」のうち、天然痘患者の瘡蓋を粉末にし鼻から吸引する方法(鼻旱苗法)を採用[5][7]。文政11年(1828年)にシーボルト事件が起こると、関連して行われた自宅捜索にて多数の蘭学医学書が見つかり、医学書没収・蟄居に処せられる(後に、藩主子息の病状改善に寄与し解除)[8]。天保元年(1830年)には種痘医「痘家」に任じられ[7]、古田山は大村藩の疱瘡研究所になった[9]。
弘化元年(1844年)には[5][注 3]、これまでの鼻旱苗法に代わり、腕に傷をつけ瘡蓋粉末を水で練ったものを塗布する方法(腕種法)へ改良[5][10][11][12]。また同年刊行の種痘普及書『種痘活人十全弁』(本間玄調著)には高名な種痘医の一人として紹介された[13]。
18世紀末にイギリスで発見された牛痘法(牛が罹患する牛痘ウイルスを人に接種する方法)が1840年代ごろ日本にも紹介され[14]、牛痘苗を入手し牛痘法に挑戦したり[10]、牛に人の天然痘を植え付けて「牛化人痘」苗を得ようとする試みなど、試行錯誤したがいずれも失敗[10][15]。弘化4年(1847年)、大村藩より「掌薬」位に任じられた[16]。
嘉永2年(1849年)には当時来日していたドイツ出身の医師、オットー・ゴットリープ・モーニッケより入手した牛痘苗を用い[16][17]、孫の長与専斎らに牛痘法による種痘を実施(日本における牛痘法成功の先駆けの一例)[17][18]。嘉永3年(1850年)には大村藩より牛痘法による種痘が公式に許可・制度化され[1][19][20]、藩内の天然痘予防に努め[11][16]、嘉永5年(1852年)には大村藩より天然痘が一掃された[19]。
またこの頃、大村藩主・大村純熈の命により点眼薬「真珠膏」、解熱などに効く「真珠丸」を製薬[21][22]。安政2年2月26日(1855年4月12日)に66歳で没した[3]。名は介、号は松移[3][4]。
娘婿で養子の長与中庵は大村藩侍医を務め[23]、江戸幕医・多紀元堅に学んだ際には同氏の「傷寒論述義」著述にも協力した[2][23]。孫の長与専斎には適塾で学ばせ[4]、明治期には内務省衛生局長などを歴任した[2]。
墓は青山霊園及び大村市内にあり[4]、大村市の墓・建築した家屋・古田山疱瘡所跡が大村市により史跡に指定されているいる[24][25][26]。
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