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野田 真吉(のだ しんきち、1916年1月28日 - 1993年11月22日)は、日本のドキュメンタリー映画監督・評論家、詩人。本名は、亘 真吉(わたり しんきち)。野田 眞吉表記もある。
息子に、映像民俗学者で駒沢女子大学教授の亘純吉、キャメラマン・映画プロデューサー・オフィスエムエイピー(野田の映像作品のビデオ等を販売している)代表の亘真幸(亘眞幸)。息子たちは、野田の制作映画にスタッフとして参加もしている。
父は南宗派の画家の野田青石。宇宙機エンジニアの野田篤司は青石の曾孫であり、遠縁にあたる。
1916年(大正5年)1月28日生まれ。愛媛県八幡浜市矢野町出身。
1937年、早稲田大学文学部仏文科卒業。在学中に中原中也の面識を得て私淑し、詩作を始める。
大学卒業後、P.C.L.に入社し文化映画部に配属。先輩の亀井文夫と知り合い、亀井作品の制作を担当。1940年「郵便従業員」で監督としてデビュー。だがほどなく、召集され敗戦まで陸軍に所属。 戦後、東宝に復帰し、日本共産党に入党。東宝争議に参加し、1949年に退社してフリーとなる。 以降、PR映画、社会派作品などを並行して発表。また記録映画作家の団体「日本記録映画作家協会」の結成に関わる。
その一方、大島渚、吉田喜重らの「映画批評の会」、安部公房、島尾敏雄らの「現在の会」、安部、花田清輝、佐々木基一らの「記録芸術の会」、長谷川龍生、黒田喜夫、関根弘らの「現代詩の会」など、さまざまな集団に関わって活動を行う。
60年安保闘争の後は共産党からはなれ、1964年に「日本記録映画協会」から分派して「映像芸術の会」を結成(メンバーは、松本俊夫、土本典昭、黒木和雄、東陽一、小川紳介ら)。機関誌の編集にも携わり、盛んに評論活動を行う。
また、1967年には杉並区在住の佐々木基一、城所昌夫、長谷川龍生、中薗英助、間宮則夫、森弘太、夫馬基彦らと「杉並シネクラブ」を結成。同会は定期上映会、会誌の発行の他、京都、浜松のシネクラブとの交流等も行ったが、1972年に解散。だがクラブに参加した学生たちとは、その後も交流が続いた。また、佐々木基一、城所昌夫、有馬弘純、夫馬基彦らとは、サロン的な「点の会」を結成し、雑誌『点』を発行した。のち、1985年には「点の会」のメンバーでイベント「われらの自由ゼミ」を企画・実行している。
ドキュメンタリー映像作家としては、1970年代以降は民俗映像に興味を移し、1991年までに自主制作で「民俗神事芸能三部作」と呼ばれる作品を発表。 1978年には、野口武典(社会人類学者)、宮田登(民俗学者)、北村皆雄(ドキュメンタリー監督)とともに発起人として、映像作家と学者との研究・親睦団体「日本映像民俗学の会」を創設している。また、牛山純一が創設した日本映像記録センターや、山口賢がプロデューサーの秀英社などで、テレビドキュメンタリーも作り続けた。
晩年は那珂太郎、佐々木基一、夫馬基彦らと連句会「魚の会」を作り、俳号・魚々で句をよんでいた。また、中世歌謡集『閑吟集』に十数年来こだわり、それについての注解の執筆を試みたが、出版されずに終わった。
1993年(平成5年)11月22日死去。77歳没。
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