野田城 (河内国)
大阪府堺市にあった城 ウィキペディアから
野田城(のだじょう)は、河内国丹比郡野田荘(大阪府堺市東区)にあった日本の城。
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城郭構造 | 平城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 野田正勝 |
築城年 | 南北朝時代(14世紀)1326年 |
主な城主 | 野田氏 |
廃城年 | 1360年 |
遺構 | なし、石碑あり |
指定文化財 | 未指定 |
位置 | 北緯34度31分14.0秒 東経135度32分40.9秒 |
地図 |
概要
南北朝時代に野田荘の地頭をしていた野田正勝が築き、第3代野田正康までの居城であったという[1]。城跡は現在、東区南野田の「すかしゆり公園」内にある。
歴史
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- 1326年 野田庄地頭の野田四郎正勝によって、穂出籬山(ほでがきやま)の高台に野田城が築かれた。
- 1333年 楠木軍の掃討に遭った野田氏はそれ以来南朝の後醍醐天皇を奉り、楠木氏に忠誠を尽くすことになった。
- 1336年 四郎正勝は楠木正成に従い、足利軍の上洛を阻止するが湊川の合戦に挑むが共に戦死した。
- 1338年 高師直の北朝軍に取り囲まれるが、四郎正勝の子・四郎正氏の知略により大きな損害を免れた。「いばらの垣根」「泥田」「紙張りの城」などで進軍を遅らせ、敵の目を欺き村人の犠牲を防いだ。
- 1348年 四郎正氏は四条畷の合戦で楠木正行と共に戦死する。
- 1360年 足利の大軍に包囲された四郎正氏の子・兵部正康は城に火を放ち城外で戦うが、そこは女・子どもを巻き込んだ凄惨な戦場と化し、野田村は壊滅状態となった。兵部正康は狭山の明神山まで退却して奮戦したが戦死し、子孫は奈良から尾張方面に逃れたと伝えられている[2]。(異説あり)
関連画像
- 四条畷の戦い(歌川国芳画)
- 石碑
注釈
文献・参考リンク
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