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(あかえ ばく、本名:(はせがわ たかし)[1]、1933年4月22日 - 2012年6月8日)は、日本の小説家。歌舞伎や能などの伝統芸能を題材にした小説や、京都を舞台にした作品を数多く発表。耽美的、伝奇的な作風で、熱烈な支持者を持つ。
2度候補となった直木賞受賞はならなかったものの、『オイディプスの刃』で第1回角川小説賞、『海峡』『八雲が殺した』で第12回泉鏡花文学賞を受賞している。
1933年、山口県下関市で教員の両親の間に6人兄弟の次男として生まれる。本名:長谷川敬。戦争中は豊浦郡豊東村(現・下関市菊川町)に疎開した[2]。
1946年、山口県立豊浦中学校(現・山口県立豊浦高等学校)に入学。1949年、山口県立豊浦東高等学校(現・山口県立田部高等学校)に転校。生徒会長を務める一方、演劇部や文芸部に所属し、演出や詩作に熱中した[2]。
1952年、山口県立豊浦東高等学校を卒業。溝口健二に憧れ映画監督を志し、日本大学藝術学部演劇科に入学。在学中は詩の同人誌「詩世紀」に参加[2]。その後「個人的な芸術作業」[3]への関心が深まって、映画への意欲が薄れ、1955年に中退する。
1958年、NHKのラジオドラマ脚本募集に「雨の女」が入賞したことをきっかけに放送作家の道へ進む。主にNHK中国管区のラジオ、TVドラマ、録音構成、ドキュメンタリー番組などを手掛ける[2]。
1968年、「明治百年記念懸賞演劇脚本」(毎日新聞社主催、松竹後援)に応募した歌舞伎台本「大内殿闇路」(長谷川敬名義)が最終選考13編に残り「大劇場用演劇制作の力量を備えている」との選評で小説を書く決心をする。
1970年、「ニジンスキーの手」を『小説現代』に発表し、第15回小説現代新人賞を受賞。以後、中間小説誌などに次々と作品を発表。その総数は長編を含め250編以上に上る[4]。
2012年6月8日、心不全のため山口県下関の自宅で死去[1]。79歳没。
デビュー作の『ニジンスキーの手』のバレエや、歌舞伎、能などの古典芸能、『オイディプスの刃』の刀剣や「雪花葬刺し」の刺青などの伝統工芸、さらには養蜂(「殺し蜜狂い蜜」)や捕鯨(「幻鯨」)など、芸道と生の間の葛藤や破滅を官能的な筆致で描くことが多い。新作歌舞伎「大内御所花闇菱五幕十二場」(『金環食の影飾り』)もある。磯田光一が『オイディプスの刃』について「この小説のオイディプス神話はひどく日本化されている」と評したように[6]、日本的な情緒と死生観が感じられる作風となっている。
瀬戸内晴美は「泉鏡花、永井荷風、谷崎潤一郎、岡本かの子、三島由紀夫といった系列の文学の系譜のつづき」として「中井英夫についで、この系譜に書き込まれるのはまさしく赤江瀑であらねばならぬ」とした[7]。
山尾悠子は赤江作品のベスト5として、1「花夜叉殺し」、2「花曝れ首」、3「禽獣の門」、4「夜の藤十郎」、5 「罪喰い」または「春葬祭」または「阿修羅花伝」を挙げている(昭和56年6月現在)。また小説現代新人賞の受賞の言葉で赤江が引用したジャン・コクトーの「一度阿片を喫んだ者は、また喫む筈だ。阿片は待つことを知っている」を、赤江の小説観をよく言い表した言葉としている[8]。
ペンネームの「赤江は赤潮」「瀑はアラシ」で、「一種の危機感」「自分にない荒々しさ」を意図するという。
2022年6月11日、下関市阿弥陀寺町にある菩提寺に文学碑が建立され除幕式が行われた[9]。
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