質取行為
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質取行為(しちとりこうい)とは、中世日本において、債務者から弁済を受けられなかった債権者が、債務の賠償を求めて、債務者と同一の組織体に属する第三者(債務者との面識の有無は問わず)の動産を私的に差し押さえる行為[1]。債権の発生原因は傷害・殺害などの不法行為であることもあり、第三者の財産の差押えだけでなく身柄拘束・傷害・殺害が行われることもあった[2]。
14世紀の史料で既に確認できるが、16世紀後半に地域公権力によって多数の禁制が出され、17世紀には消滅したものとみられる[3]。
債務者の属する組織体によって異なる呼び方がされるが、必ずしも行政区画の国・郷と一致するわけではない[2]。
国質(くにじち)、郷質(ごうじち)、所質(ところじち)の3つが代表的なものであるが、この他に庄質、村質[4]、郡質[4]、方質[5]、里質などが確認されている[6]。
これらの呼称の違いは、債務者と第三者が属する組織体を厳密に指したものではなく、もっぱら地域性によって呼称が決まる[2]。国質は全国的に分布するが、三河・尾張・美濃・近江を境として東に郷質、西に所質が分布する[6]。その他の事例はきわめて少ない。
国質・郷質の特質は「謂われなき方を取る」[注釈 1]、すなわち債務者本人ではない第三者の身柄や動産を差押えの対象とすることにある。つまり国質・郷質というのは債務者の所属する集団たる国・郷を一つの政治的社会的結合体として理解する前提のもと、報復の対象を個人から集団に拡張するものである。このように中世において「個対個」の関係が「個対集団」ないし「集団対集団」の関係に容易に転化する背景には、当時の社会的結合体における強い一体感の意識がある[7]。
中世日本における集団とそこに所属する個人の関係は、個人は集団の中においてはじめて全存在が保証されるというものであった。集団は外部から個人が被害を受けた場合に集団全体で報復を行うという形で個人にとって極めて強烈な保護機能を発揮した[8]。逆に集団からの保護を失った個人というのは、生存権すら確保することが困難であった。『大内氏掟書』においては、大内氏の勘気を蒙って主従関係の枠を外れた者は、「公界往来人」と同じものとして、その者が殺害されようと大内氏としては一切関与せず、従って殺害者も処罰を受けないとの条項がある[注釈 2]。ここには所属集団から追放された個人のあり方が端的に示されている[9]。
所属集団によって個人が保護されるという事実は反面、個人が所属集団に対する報復の一環として被害を受ける場合があることを意味した。後述するように伊達氏の分国法『塵芥集』には国質に関する手続規定が存在するが、その直後に「人をきり、人をころし候へんほう(返報)として、おなし国の者、たこく(他国)にて相かゝへられ、又ハうたるゝ事あらは、根本おかし候つミのやからを尋さくり、せいはい(成敗)をくわふへきなり」との規定がある。ここでは、殺害行為の報復として、加害者と同国の者が拘束ないし殺害される場合があることが示されている。ここには報復対象となる集団が一種の運命共同体のようなものとして、そこに属する個人はその有機体の一部として意識されていたことが現れている[10]。国質・郷質という事象は、このような背景を前提として、当時の社会では債権債務関係ですら個人と個人の関係のみで完結するものではなかったことを示している。
現実的には、債務者本人から賠償を得る事が困難である場合に、直接関係のない債務者と同じ集団に属する者に被害を与えることで問題をその集団内部の問題に転化させ、その内部解決によって返還を実現しようとしたものとみることができる[11]。
市場が債務者の同国人・同郷人を見つけて差押えをする場となったが、市場の平和を目指した大名権力によって質取行為は禁止されることとなった[12]。
永正7年(1510年)2月20日左衛門尉・近江守・若狭守連署掟(『武家名目抄[15]』)
塵芥集[17]
天文21年(1552年)10月12日付大森平右衛門尉宛織田信長折紙
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