豊田三郎 (小説家)
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豊田 三郎(とよだ さぶろう、1907年(明治40年)2月12日 - 1959年(昭和34年)11月18日)は、日本の小説家。妻は歌人の森村浅香、作家の森村桂は長女[1]。
埼玉県南埼玉郡川柳村柿木(現草加市)出身[1]。旧制粕壁中学(現在の埼玉県立春日部高等学校)から旧制静岡高等学校を経て東京帝国大学独文科を卒業。
1932年(昭和7年)に紀伊國屋書店出版部に入社[1]。舟橋聖一や田辺茂一と知り合い、雑誌「行動」の編集長を務める。1935年(昭和10年)に小説『弔花』を発表して行動主義文学の作家として注目され、同作品は芥川賞候補作となった[1]。同年、同年、森村浅香と結婚して森山姓となる[1]。
戦時中は旧制中学校の国語教員を務める傍ら、長編小説『青春』を執筆する。さらに陸軍報道班員としてビルマに渡る。帰国後は、戦争の体験をまとめた『行軍』(1944年)で日本文学報国会主催の文学報国会小説賞を受賞する。戦後は『仮面天使』(1948年)がベストセラーになる。1953年、『好きな絵』で芥川賞候補になるが落選する。日本文芸家協会書記局長としてはチャタレイ裁判に取り組む。
1959年11月18日、狭心症のため急死。享年52(長女・桂19歳)。最期の言葉は「生きていても、死んでも、どっちでもいい。あばよ」だった。墓所は小平霊園(12-4-26)。
将棋を愛好しており、将棋の観戦記も執筆した。
娘・桂の『天国にいちばん近い島』の中で、幼い頃の著者にニューカレドニアの話を聞かせた父親として登場する。
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