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谷 豊(たに ゆたか、1911年〈明治44年〉11月6日 - 1942年〈昭和17年〉3月17日)は、昭和初期にマレー半島で活動した盗賊。福岡県筑紫郡曰佐村五十川(現在の福岡県福岡市南区五十川)出身で、イギリス領マレーに渡った後に盗賊となり「ハリマオ」として一躍知られる存在となった。その後、日本陸軍の諜報員となって活動した。ムスリム名「モハマッド・アリー・ビン・アブドラー」。
1911年11月6日、福岡県筑紫郡曰佐村五十川(現在の福岡県福岡市南区五十川)で理髪店を営む父・谷浦吉、母トミの長男として生まれた。豊が2歳の頃、一家はイギリス領マレーのクアラ・トレンガヌに移住。以降、マレーの文化に親んで育った。父は現地で理髪店バーバー・タニを開業している[1]。
「教育は日本で受けさせたい」という父の意向もあり、学齢期にはいったん帰国(祖父母の家に滞在)し、曰佐村立曰佐尋常小学校に入学して1926年3月に卒業。引き続き曰佐高等小学校に入学した。しかし翌1927年3月に迎えに来た母とともに再びクアラ・トレンガヌへ戻り、マレー人の友人たちとともに青春時代を過ごした。けんかっ早く腕っぷしも立ち、頼りがいのある兄貴分だったという。マレー文化の影響を受け、1930年頃にイスラム教に帰依している。この頃ひそかにマレー人の女性と結婚したらしいが、すぐに別れている。
1931年、20歳のとき、徴兵検査を受けるため再び帰国。徴兵検査の結果は身長が規定(1.55m)に達しなかったために丙種合格(軍に入営する現役に適さず、戦時の際に必要なだけ召集される)だった。「丙種」は当時の日本人にとっては恥とされたが、豊はさして気にする様子もなかったという。その後、アサヒ足袋(後の日本ゴム)に入社したが間もなく辞め、福岡市内の渡辺鉄工所に就職した。気前が良く、自分の田も売ってしまい貧しい仲間に金品を分け与えてしまったという。だが豊は望郷の念に駆られ、マレーに帰ろうとたびたび密航を企てた。
1931年12月、マレーで父浦吉が死去(享年53歳)。1933年11月6日、前々年に起こった満州事変に怒った華僑の暴漢(外来の広西人)が中国人街を襲い、谷家(店舗兼住居)の2階で風邪で寝込んでいた豊の末の異母妹静子が斬首され殺された。暴漢は静子の首を持ち去り、中国人街外れの観音堂まで運んだとも、台の上に据えてさらしたともいう。なお、静子の首は警察によって谷家に返され、隣家の歯科医によって遺体と縫い合わされた。街の住人同士はマレー人も中国人も日本人も仲良く暮らしており対日感情も悪くなかったが、この事件は華僑社会にも大きな衝撃を与えた。なお通説では犯人は捕まらなかったとされるが、逮捕されコタバルあたりで死刑を執行されたとする証言もある。
翌1934年6月、谷一家は日本へ引き揚げた。帰国した母親から事件のことを聞いた豊は激怒し、同年後半ごろ単身再びマレーへ向かった。
再びマレーへ戻った豊はマレー人の友人たちと徒党を組み、華僑を主に襲う盗賊団となった。数年の間、マレー半島を転々としながら活動を続けていた。
マレー語とタイ語を堪能に扱い、大胆な行動と裏腹に敬虔なムスリムであった谷を、誰もがマレー人と信じて疑わなかったという。しかし、その時期にタイ南部のハジャイで逮捕、地元の刑務所に投獄され、そこで2か月の獄中生活を送った。
そんな中、大東亜戦争が始まる。開戦にあたり、まずマレー半島攻略を第一目標とし、現地に精通した諜報員を欲していた日本陸軍参謀本部は、日本人でありしかもマレー半島を股にかけて活動する豊と彼の率いる盗賊団に目をつけ、彼らを諜報組織に引き込もうとした。その任務を請け負ったのが、満州国の警察官で諜報員・神本利男であった。
1941年1月下旬、昭和通商嘱託(実質的な諜報員)[2]としてバンコクに赴いた神本は、軍から用意された25バーツの保釈金をタイ警察に払い[3]、獄中の谷を釈放、そして軍へ協力するよう説得を試みた。当初、マレー人として生きていく事を望んでいた谷は軍への協力を拒んだが、マレーの習慣を学び、ゆくゆくはイスラムに帰依したいという神本の熱意に押され、ついに軍への協力を引き受ける事となる。 その際神本は谷をこのように説得した。
「もし戦争が始まったら、その戦争は、このマラヤの大地を、マレイ人のものにする戦いの始まりでもあると、おれは考えているんだ。
今のマレイ人の力では、とてもイギリス軍をこのマレー半島から追い出すことは不可能だが、日本軍の軍事力に、多くのマレイ人が協力してくれるなら、百五十年もマレー半島を支配したイギリス軍と収奪の植民地勢力を、このマレー半島の大地から追い出すことができると……」
それから数週間後、谷はかつての仲間たちを呼び寄せ、再び神本の前に現れた。こうしてハリマオ盗賊団は再結成された。
マレー半島北部のタイ国境近くにジットラという町がある。ここは当時アロースターを始めとする英軍の主要飛行場への玄関口にあたり、南下する日本軍にとっては是非とも攻略したい場所、逆に、守る英軍にとっては絶対負けられない重要な場所だった。
そこで英軍は飛行場を守るため、ここに強固な要塞地帯、通称「ジットラ・ライン」を構築することにした。イギリス軍はこの要塞で日本軍を3ヶ月は足止めできると豪語していたが、本来ジットラは湿地帯であり工事は難航、工事を請け負っていたタイ政府も半ば匙を投げかけていた。そこに谷と神本は目を付けた。ハリマオ一党はジットラ近辺の集落に拠点を構え、工事の妨害工作を行うことにした。まず谷が仲間とともにジットラ・ラインに潜入して測量を行い、神本の手によってそのデータはタイ王国公使館附武官の田村浩大佐に送られた。続いて一党は二人一組に分かれて労働者の中に紛れ込み、資材の投棄や建設機器の破壊などの実力行使に入った。
この結果、ジットラ・ラインの工事は大幅に遅れ、1941年12月12日、山下奉文中将率いる第25軍隷下の第5師団・佐伯挺進隊の猛突進により僅か1日で突破された。以降も、日本軍のマレー半島攻略は順調に進んでいった。
その後も豊は部下や特務機関「F機関」とともに諜報活動に従事していたが、その主な任務は敗走する英軍が橋に仕掛けた爆弾の解体だった。しかし、先回りして橋を爆破されていた事が少なくなく、また爆弾が何重にも仕掛けられていて全ての爆弾の除去に間に合わず失敗、と言う事も多々あった。そのもどかしさにさすがの谷も、「橋を爆破しろというなら俺の本業だから慣れているが、仕掛けた爆弾や爆破装置を除去せよという命令には参った」と神本に愚痴をこぼしていたと言う[4]。
しかし谷はその最中にマラリアに感染した。当時、日本軍は英軍から捕獲したキニーネ剤を大量に保有していたが、谷は「本当のマレー人なら白人の作った薬は飲まない」とキニーネ剤を断固として飲まず、現地の伝統法であるサイの角を粉末にして飲んでいた。だがこれが仇となり、谷の症状は周囲の人間が担架で担がないといけない程にまで悪化した。
その時の状況をF機関長・藤原岩市少佐はこう記している。
プキット・パンジャンの本部にたどり着いたのは14日朝9時ごろであった。クアランプールから本部のFメンバー全員が到着していた。 神本君が沈痛な面持ちで私を待っていた。ハリマオがゲマス付近に潜入して活躍中、マラリアが再発して重態だという報告であった。 ハリマオは、ゲマス付近の英軍の後方に進出して機関車の転覆、電話線の切断、英軍配下のマレイ人義勇兵に対する宣伝に活躍中、無理を押していたのが悪かったのだという説明であった。 私は神本君になるべく早くジョホールの陸軍病院に移して看護に付き添ってやるように命じた。 一人として大切でない部下はない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な運命とこのたびの悲壮な御奉公とを思うとなんとしても病気で殺したくなかった。 敵弾に倒れるなら私もあきらめ切れるけれども、病死させたのではあきらめ切れない。私は無理なことを神本氏に命じた。
「絶対に病死させるな」と[5]。
2月1日午前3時ごろ、谷はジョホーバル野戦病院に緊急入院した[6]。しかし、施設も決して充分なものではなく「病院と言うべきかどうか分からない」程の状況だったという。
2月17日、更に藤原少佐は陥落間もないシンガポール病院への転院を命じた[7]。 しかし、ここでも充分な治療は受けられず、谷は日に日に衰弱していった。また、3月14日には、病床の谷を神本が訪ねている。
その時の状況を、神本のガイドを務めていた当時19歳の青年、ハジ・アブドル・ラーマンは次のように述べている。
トシさん(神本)とハリマオは硬く手を握り、言葉少なく、眼と眼を見つめ合っていました。おそらく二人だけの心に通じる無言の会話を交わしていたのでしょう。 今でもはっきり覚えていることは、ハリマオがトシさんとの約束であった、誰か友人のイマム(導師)に頼んで、トシさんのイスラム教への改宗のシャハーダ(儀式)を行うまで生きておれそうにないと、
すみません、すみませんと、何度も詫びていたことです[8]。
その三日後、谷は短い生涯を終えた。30歳だった。遺体は部下らが引き取り、イスラム式の葬礼をおこなったという。現地のどこに葬られたかは未だ分かっていない。現在、シンガポールの日本人墓地に記念墓がある。
なお諜報員として働いていた豊は軍属ということで戦死扱いされ、福岡の実家へは戦死公報が届けられた。また当時の制度により、ムスリムでありながらも靖国神社への合祀も決まった。
日本軍としてはこの劇的な日本人諜報員・谷豊に戦意高揚のシンボルとしての役割をも見いだし、彼の死は新聞でも報道された。
また、豊は「マレーのハリマオ」または「ハリマン王(ハリマオの転訛)」などとよばれて大々的に宣伝され、映画なども作られた。ハリマオはharimauと表記し、マレー語で虎のこと。この名前は「豊のマレーでの通称『ハリマオ・マラユ』」に由来するとも、「豊らの盗賊団を諜報員にした際の作戦名『ハリマオ作戦』」に由来するとも言われているが、いずれにせよ豊が死後英雄視される中で広まった名前である。こうして伝説的な英雄「ハリマオ」の虚像が一人歩きをはじめた。
大戦中に作られたハリマオのイメージは根強く残り、戦後も『快傑ハリマオ』としてドラマ化され、同時にメディアミックスで漫画連載もされた。しかし戦争が過去の物となり、アジアでの戦争行為について日本国内で批判的な見方が高まるにつれ、軍国主義のシンボルでもあった英雄「ハリマオ」は徐々に風化した。
谷豊は没後半世紀を経た20世紀末に再評価されるようになった。
豊が愛したマレーシアでも、1996年に初めて彼をテーマとしたドキュメント番組が組まれた[要検証]。その番組のラストは次の言葉で締めくくられている。
“イギリス軍も日本軍も武器ではマレーシアの心を捉えられなかった。心を捉えたのは、マレーを愛した一人の日本人だった。”
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