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英語通訳者(1911-2007) ウィキペディアから
西山 千(にしやま せん、1911年[1]9月12日[2] - 2007年7月2日)は、日本の同時通訳者。同時通訳の草分けであり、月面着陸を果たしたアポロ11号のテレビ中継を担当したことで広く知られた[3][4][5]。
アメリカ合衆国ユタ州ソルトレイクシティで[5]日本人の両親のもとに生まれ[4]、アメリカ合衆国の国籍をもつ日系アメリカ人として[6]、家庭では日本語、学校では英語を使いバイリンガルとして育つ[7]。出生名は、ウィリアム・セン・ニシヤマ (William Sen Nishiyama) と届けられていた[8]。子どものころには、母に連れられ、日本を訪れることもあった。マイク正岡とは、少年期からの友人であったが、後年の正岡の回想によれば、中学校のクラスで市営プールに出かけた際に、西山だけが日本人という理由でプールに入れてもらえないといった経験をしたという[6]。
ユタ大学で電気工学を専攻し、卒業後は大学で助手としても働き、1934年には修士号を取得した[8]。
1934年に父が死去した後、大不況の中で電気関係の職が減少した上、日本人排斥の動きも高まりもあって[7]、母とともに日本へ移り、1935年に日本国籍を取得した[1][8]。
1935年から1945年までは、逓信省電気試験所(産業技術総合研究所の前身のひとつ)で研究に従事した。この時期には、もっぱら技術文書の翻訳に取り組み、日本語の読み書き能力を向上させた[8][7]。
戦後は、1945年から1952年まで、連合国軍最高司令官総司令部で働いた[5]。この時期には、占領当局と日本政府の連絡の場面に数多く立ち会い、異文化コミュニケーションの様々な問題を経験した[8]。その中で、逐次通訳に代わる通訳法として自己流で同時通訳をするようになったという[7]。1951年には、国務省の雇用となり、合衆国情報局 (United States Information Agency, USIA) の前身である合衆国情報サービス (United States Information Service, USIS) の東京における通訳、翻訳者となり、1972年まで業務にあたった[8]。
やがて、駐日アメリカ合衆国大使(1961年 - 1966年在任)エドウィン・O・ライシャワーの個人通訳となった[5]。ライシャワーは西山の力量を高く評価し、「西山はまさにかけがえのない素晴らしい通訳」と日記に記した[7]。
リチャード・ニクソン、ロバート・ケネディ、ジョン・グレンなど、来日する要人の通訳を務めることもよくあった[8]。
1969年には、アポロ11号のテレビ中継放送(NHK)の同時通訳を國弘正雄とともに担当したことをきっかけに広く知られるようになり[5]、以降、講演や寄稿、テレビ出演などが増加した[8]。
1973年にソニーの理事、1976年に顧問となり、さらに嘱託となって1986年までソニーに在籍していた[1][5]。 並行してサイマル・アカデミーにも関わり続けた[5]。
日本翻訳協会理事長[3][5]・会長(1995年 - 2002年)を務め[4]たほか、長く日本ペンクラブの会員であった[5]。
西山は、異文化コミュニケーションや、日系アメリカ人の歴史、同時通訳技術に関する著作を残した[5][9]。
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