融
能の演目 ウィキペディアから
『融』(とおる)は、平安時代の左大臣源融とその邸宅・河原院をめぐる伝説を題材とする能の作品。五番目物・貴人物に分類される。囃子に太鼓が入る太鼓物である[1]。作者は世阿弥。
概要

能のあらすじは次のとおりである。東国から上洛した僧(ワキ)が、京都六条河原院に着く。そこに老人(前シテ)が現れ、自分のことを「潮汲み」と名乗る。そして、かつて融の大臣が、陸奥・塩竈の浦の景色を都に移すために、難波から海水を都まで運ばせて池を作り、御遊を楽しんだことを語るが、その後は受け継ぐ人もおらず、荒れ果てている有様を嘆く。続いて、老人は、僧の求めに応じ、河原院から見える東の音羽山から西の嵐山までの名所を教えるが、ふと我に返ると、潮を汲む有様を見せて、姿を消す(中入り)。僧のもとに、近くに住む都人(アイ)が現れ、河原院の来歴を再説する。僧が夜寝ていると、融の大臣の亡霊(後シテ)が現れ、昔を思い出しながら舞を舞い、名残を惜しみながら月の都に帰っていく。
進行
要約
視点
前場
僧の登場
東国から上洛した旅の僧(ワキ)が登場し、京都六条河原院に着いたことを告げる。
ワキ「これは東国方より出でたる僧にて候、われいまだ都を見ず候ふほどに、このたび思ひ立ち都に |
[僧]私は東国方から来た僧です。私はまだ都を見たことがありませんので、この度思い立ち、都に上ることにしたのです。 |
潮汲みの老人の登場

そこに老人(前シテ)がやってきて、河原院の景色をほめるとともに、自らの老いた身を嘆く。前シテは、笑尉(または朝倉尉)の面で、尉髪、水衣、腰蓑、扇という出で立ちである。
僧と潮汲みの老人との問答

僧が老人に話しかけると、老人は、自分のことを「潮汲み」と名乗る。僧は、海辺でもない都で「潮汲み」というのはおかしいのではないかと問うと、老人は、河原院は融の大臣が昔塩竈の浦の景色を移してきた場所なので、「潮汲み」と言っておかしくないと答える。そのうちに月が出て、2人は唐の詩人賈島の詩句を思い出して感慨にふける。
ワキ「いかにこれなる尉殿、おん身はこのあたりの人か |
[僧]もし、そちらのご老人、あなたはこの辺りの人ですか。 |
河原院の来歴の述懐

僧が、老人に、塩竈の浦を都に移した由来を尋ねる。すると、老人は、融の大臣が難波から海水を都まで持ってこさせて塩竈の浦を模した池を作り、御遊を楽しんだことを語るが、その後は受け継ぐ人もおらず、荒れ果てている有様を嘆く。
ワキ「塩竈の浦を都のうちに移されたる |
[僧]塩竈の浦を都の中にお移しになった由来をお話しください。 |
名所教え
一転して、僧は老人に、河原院から見える名所を尋ねる。老人は、東に見える音羽山、そこから南の方へ清閑寺、今熊野、稲荷山、藤の森、深草山、木幡山、と名所を教えていく。
ワキ「いかに尉殿、見えわたりたる山々はみな名所にてぞ候ふらん、おん教え候へ |
[僧]もしご老人、見渡せる山々はみな名所なのでしょう。それをお教えください。 |
その後は、都の西方に見える小塩山、その北側の嵐山と案内し、月に見とれているうちに、老人は我に帰り、潮を汲む。そう思うと、老人の姿は消えてしまった(中入り)。
シテ〽 |
[老人]興に乗って |
間狂言
僧のもとに、近くに住む都人(アイ)が現れ、融の大臣が、陸奥の塩竈の景色が素晴らしいと聞き、これを都に移そうと思われ、多くの人足を使って難波の浦から毎日海水を汲んでこさせ、ここ河原院の邸宅に庭園を造ったこと、籬が島という島に舟を寄せては詩歌を楽しんだこと、融の没後は庭が荒れ、その様子を紀貫之が歌に詠んだことなどを語る[8]。
後場
待謡
僧は、河原院で旅寝をする。
ワキ〽磯枕、苔の衣を片敷きて、苔の衣を片敷きて、岩根の |
[僧]磯辺に、僧衣を片敷いて、一晩を過ごし、再び奇特を見ることができるかと思い、夢待ち顔で旅寝をすることだ。 |
融の大臣の亡霊の登場

僧のもとに、融の大臣の亡霊(後シテ)が現れる。後シテは、中将(または今若)の面、初冠、単狩衣(または直衣)、指貫、扇の出で立ちである[9]。
シテ〽忘れて年を経しものを、またいにしへに帰る波の、 |
融の大臣の亡霊の舞
融の大臣の亡霊は、昔を思い出しながら、舞を舞う。
シテ〽 |
こうして、融の大臣の亡霊(後シテ)は、早舞を舞う。
終曲
融の大臣の亡霊は、名残を惜しみながら月の都に帰っていく。
地謡〽あら面白の |
――ああ趣のある舞だ。それにしても明月といっても、まだ新月から間もない頃の月が、宵々、光も形も小さいのは、どういうわけだろうか。 |
作者・沿革
世阿弥の子・観世元能の著書『申楽談儀』には、「塩竈」の名で本曲が世阿弥の作品として紹介されている。世阿弥自身の著書『音曲口伝』でも本曲の一節がやはり「塩竈」の題で引用されており、作者が世阿弥であることは確実視されている。曲名は、元来「塩竈」と呼ばれていたようで、金春禅竹も「塩竈」と呼んでいるが、禅竹の孫・金春禅鳳は「とをる」と記しており、この頃には曲名が変わっていたようである[12]。
『伊勢物語』や『古今和歌集』に記された融の河原院造営に関する説話をベースとしているものの、その依拠の部分は比較的小さい。本作の作品世界そのものは、作者である世阿弥の美意識に基づく創作と見なすべき、と能楽研究者の伊藤正義は指摘する[13]
一方、世阿弥の父・観阿弥が、やはり融を題材としたと見られる「融の大臣の能」を舞ったという話が『申楽談儀』にある(曲自体はすでに散佚)。「融の大臣の能」と「融」の関係については、「全くの別曲」「『融の大臣の能』を改作したのが今の『融』」と、意見が分かれる[14]。
前述の伊藤は、「融の大臣の能」は、『江談抄』などにある、「河原院に滞在する宇多法皇と御息所の前に融の亡霊が現われ、御息所を奪おうとするも失敗する」との説話を元にした能だったとし、融が御息所への邪恋を訴える場面の一部が、現「融」で前シテがかつての河原院を懐かしむ場面に引き継がれたのでは、と推測している[14]。事実だとすれば、女性への恋慕が、邸宅への執心にスライドした形になる。
特色・評価
源融(822年 - 895年)は嵯峨天皇の十二男で、臣籍降下して従一位左大臣にまで登った実在の人物。六条に築いた邸宅・河原院に塩竈の光景を写して風流三昧に耽った、との逸話は、古く『古今和歌集』所載の紀貫之の歌(君まさで煙絶えにし塩釜のうらさびしくも見えわたるかな)や、『伊勢物語』81段などに伝えられている[15]。
「融」ではこうした説話に基づき、融は気品ある風流な貴人として描かれている。そんな融の花やかな舞と、荒廃した河原院跡の哀しさ、という対照的なモチーフを美しい叙景描写でつないだ巧みな構成、そして詞章は、数ある能の中でも優れた一曲との評価が高い[16]。
大正 - 昭和期の名手として知られた能楽師・櫻間弓川も本曲を好きな能の1つとして挙げる。著書の中で弓川は、少ない登場人物など簡素な構成でありながら、「喜怒哀楽の複雑な感情」を深く表現した、「能本来の精神を最もよく表現してゐる能」と賞賛している[17]。
室町期から盛んに上演されており[18]、現在もシテ方5流のすべてで現行曲として扱われる。また、末尾の「この光陰に誘はれて、月の都に、入り給ふよそほひ、あら名残惜しの面影や」の詞章から、故人追善のための演能でしばしば舞われる[15]。
小書
多くの小書(特殊演出)があり、「思立之出」(観世流・喜多流)、今合返(観世流)、替(大蔵流)、「白式」(観世流)、「窕(クツロギ)」(観世流・宝生流・金剛流)、「舞返」(観世流)、「十三段之舞」(観世流・金剛流)、「舞留」(観世流)、「袖之留」(金剛流)、「笏之舞」(宝生流・金春流・喜多流)、「酌之舞」(観世流)、「曲水之舞」(喜多流)、「遊曲」(宝生流・金春流・金剛流・喜多流)、「遊曲之伝」(喜多流)、「舞働」(観世流)、「彩色」(観世流)、脇留(観世流・金剛流)がある[1]。
脚注
参考文献
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