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日本の小説家(1889-1932) ウィキペディアから
藤澤 清造(ふじさわ せいぞう、1889年(明治22年)10月28日 - 1932年(昭和7年)1月29日)は、日本の男性小説家、劇作家、演劇評論家である。
石川県鹿島郡藤橋村ハ部37番地(現在の石川県七尾市)に、藤澤庄三郎・古への次男として生まれる。長姉とよ、兄信治郎、次姉よねにつづく第4子であった。1900年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第4学年を卒業。卒業後、七尾町内の活版印刷所に働く。仕事は印刷所が新聞取次を兼業していたので、新聞配達であった。右足が骨髄炎に罹り手術を受け自宅療養。生涯、骨髄炎の後遺症に苦しめられる。恢復後は、阿良町の足袋屋「大野木屋」、次いで、鋲屋、代書屋に勤める。
1906年、18歳のときに東京へ行き、伊藤銀月や中里介山の面識を得る。弁護士野村此平の玄関番、製綿所、沖仲仕といった職に就き、1910年には当時弁護士だった斎藤隆夫の書生となる。このころ、同郷の横川巴(巴人)、赤尾彌一、大槻了、安野助多郎らと親しく交友する。安野に紹介された徳田秋声の縁で三島霜川が編集主任であった演芸画報社に入社し、訪問記者として勤める。
1912年、斎藤茂吉の青山脳病院に入院していた安野助多郎が縊死。安野は、清造の代表作となった『根津権現裏』の岡田のモデルであると言われる。また、茂吉の歌集『赤光』収録の連作「狂人守」に登場する患者も、安野がモデルとみられている。
1920年、『演芸画報』発行元の演芸倶楽部を退社し、小山内薫の紹介で松竹キネマに入社するも、翌21年、経費削減を理由に馘首(解雇)される。松竹キネマを退社後、大阪府西成郡中津町に住んでいた兄信治郎のもとに身を寄せ、長編小説『根津権現裏』を執筆する。小山内の紹介で劇作家協会常任幹事となり、1922年にはやはり小山内の世話でプラトン社の非常勤編集者の職を得る。
1922年4月、友人の三上於菟吉の世話で『根津権現裏』を日本図書出版株式会社から刊行する[1]。後に精神に異常をきたし、失踪を繰り返した末、1932年1月29日早朝、芝区芝公園内の六角堂内で凍死体となって発見され、身元不明の行旅死亡人として火葬される。その後、履いていた靴に打たれた本郷警察署の焼印が元で、久保田万太郎によって清造の遺体と確認された。戒名は清光院春誉一道居士[2]。墓は石川県七尾市の西光寺[3]。
私小説作家の西村賢太は藤澤に傾倒し、『歿後弟子』を称していた。清造の月命日(毎月29日)には墓参を欠かさず、2001年からは自ら西光寺に申し入れて「清造忌」を復活させた他、2002年には清造の墓の隣に自身の生前墓を建てている[3]。西村自身が編集する形で、朝日書林から全5巻別巻2の『藤澤清造全集』を2001年から刊行する予定としていた。
2011年2月、西村が芥川賞を受賞し、藤澤もろとも脚光を浴びた機会をとらえ、「一杯やった勢いで文庫の部長に直談判し」、代表作「根津権現裏」の文庫復刊を新潮社にもちかけた結果、同年7月に復刊が実現。解説から年譜、語注まで西村が一手に引き受けた[4]。2012年には、西村を編者とした『藤澤清造短篇集』が出版されている。しかし、上述の『藤澤清造全集』は内容見本を出しただけにとどまり、西村は2022年2月に急逝した。
2024年(令和6年)1月1日に発生した能登半島地震では、西光寺も被災し、並んでいた藤澤と西村の墓石に地蔵堂が覆いかぶさるように倒壊して横倒しになった[5]が、ファンの支援や関係者の尽力によって、同年9月3日に二人の墓の修復が完了した[6]。
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