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蔣 鼎文(しょう ていぶん)は、中華民国(台湾)の軍人。国民革命軍の有力軍人で、中国共産党(紅軍)討伐や日中戦争に参戦したが、日本軍の大陸打通作戦の前に大敗を喫している。字は銘三。浙江省紹興府諸曁県の出身。
15歳で涅浦鎮翊忠書院に入学したが、1912年(民国元年)、軍人の道に転じるため、紹興大通陸軍学堂に転入する。年内に浙江講武学堂に進学した。卒業後は浙江軍に配属され、1915年(民国4年)、広東省に赴き、孫文(孫中山)を支持する元浙江督軍蔣尊簋の配下となる。
1921年(民国10年)5月、蔣鼎文は広州大元帥府参謀部副官に任ぜられた。1922年(民国11年)1月には、北伐軍滇黔軍第1路司令部上校参謀となる。1924年(民国13年)5月、黄埔軍官学校で中尉区隊長兼教官に任ぜられ、後に軍校教導団で第1営少校副営長となった。以後、東征(陳炯明討伐)などの指揮をとり、1925年(民国14年)、国民革命軍第2師第5団団長に昇進している。
1926年(民国15年)7月より蔣鼎文は北伐に従軍し、総司令部直属傷兵団少将団長となる。1927年(民国16年)4月、蔣介石により南京に国民政府が成立すると、蔣鼎文は南京警備団長に起用された。その後、浙東警備司令兼寧波市公安局局長に転じ、9月、第1軍第1師師長となっている。1928年(民国17年)1月、第1軍副軍長兼第1師師長に昇進し、さらに軍長代理となった。
北伐終了後、軍縮に伴い、蔣鼎文は同年10月に第9師師長となったが、1929年(民国18年)に第2軍軍長に再び昇進した。1930年(民国19年)の中原大戦に参戦し、蔣介石勝利後に蔣鼎文は洛陽に駐留し、隴海路西段警備司令を兼任している。1932年(民国21年)1月の第1次上海事変に際し、蔣鼎文は第19路軍を支援して日本軍と戦い、事変後に上海の守備を担当した。
同年冬、武漢に部隊を率いて移り、長江七省水警総局局長を兼任した。1933年(民国22年)からは中国共産党(紅軍)討伐に従事し、五省剿匪軍北路前敵総指揮、東路剿匪総司令を歴任する。また、同年11月に発生した福建事変の鎮圧にも参加し、1934年(民国23年)11月、駐閩綏靖公署主任に任命される。1935年(民国24年)5月、二級上将位を授与され、12月には、中国国民党第5期中央執行委員に選出された。
1936年(民国25年)、蔣鼎文は西北剿匪前敵総司令に任ぜられ、長征により延安に根拠を置いた共産党に備えることになる。同年12月の西安事件では、蔣介石と共に蔣鼎文も張学良らに一時拘禁された。日中戦争(抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)10月、蔣鼎文は第4集団軍総司令に任ぜられ、11月に軍事委員会委員長西安行営主任を兼任した。1938年(民国29年)6月、陝西省政府主席兼保安司令にも任ぜられている。1939年(民国28年)2月、第10戦区司令長官となった。
1941年(民国30年)12月、蔣鼎文は第1戦区司令長官兼冀察戦区総司令に任命され、対日戦の前線指揮をとることになる。1943年(民国32年)6月には、第24集団軍総司令も兼任した。しかし1944年(民国33年)春、大陸打通作戦を開始した日本軍の迎撃に失敗、壊滅的損害を被ったため、7月に蔣鼎文は引責辞任に追い込まれている。その後、軍事参議院参議の閑職に回されたが、1945年(民国34年)5月には党第6期中央執行委員に再選された。
戦後、蔣鼎文はいったん軍事・政治の世界から退き、実業家としての活動を開始している。その後政界に復帰し、1947年(民国36年)5月に国民政府戦略顧問委員会委員に任ぜられ、1948年(民国37年)には行憲国民大会代表に選出された。国共内戦終盤の1949年(民国38年)3月、蔣鼎文は台湾に逃れている。以後、東南区点検整編委員会主任委員、光復大陸設計研究委員会委員、総統府国策顧問を歴任している。
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