落花岩
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落花岩(らっかがん、朝鮮語: 낙화암; ナックヮアム)は、忠清南道扶餘郡扶蘇山にある岩である。1984年5月17日、忠清南道の文化財資料第110号に指定された。
落花岩 (忠清南道の文化財資料第110号) | |
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落花岩から錦江を見下ろす
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各種表記 | |
ハングル: | 낙화암 |
漢字: | 落花岩 |
発音: | ナックァアム |
日本語読み: | らっかがん |
文化観光部2000年式: | Nakhwaam |
百済の義慈王20年(660年)、羅・唐連合軍の攻撃で百済の首都泗沘城が陥落した際、百済の3千の宮女がここから白馬江(백마강、ペンマガン)に向かって身を投げたとの伝説に由来した岩である。
落花岩の絶壁には、1929年に、宮女たちを追慕するために六角形の『百花亭』亭子が建立された。下には宋時烈(1607年 - 1689年)揮毫と伝わる「落花岩」と彫刻された文字が刻まれている。[1]
自殺した宮女についての内容が言及された最初の記録は一然の『三国遺事』巻1「太宗春秋公」条であるが、次のようである。
[百濟古記云『扶餘城北角有大岩、下臨江水、相傳云、義慈王與諸後宮知其未免、相謂曰“寧自盡、不死於他人手。”相率至此、投江而死、故俗云墮死岩。』 斯乃俚諺之訛也。但宮人之墮死、義慈卒於唐、唐史有明文。]
百濟古記に云(いわ)く『扶餘城の北角に大岩有り、下 江水に臨む、相い傳(つた)へて云く、義慈王と諸〻(もろもろ)の後宮と其れ未だ免れざるを知り、相い謂(い)ひて曰く“寧(むし)ろ自盡(じじん)せんも、他人の手に死せず。”相い率(ひき)いて此(ここ)に至り、江に投じて死す、故に俗に墮死岩と云(い)う。』斯(こ)れ乃ち俚諺(りげん)の訛(か)なり。但(ただ)宮人の墮死せんも、義慈の唐に卒する、「唐史」に明文有り。
「 | 百済古記に言う、『扶餘城北側の角に大きな岩があって、その下で江水に臨んでいる所だが、伝えられる所、義慈王とさまざまな後宮は、禍を免れえないことを知り、いっそ自殺しようとも他人の手に死なぬようにしよう。と言うや互いに連れだち、江水に身を投げて死んだと言うことで、世間では堕死岩(타사암; タサアム)と呼ぶ』。これは俗説の訛伝である。宮女たちはそこから落ちて死んだであろうが、義慈王が唐で死んだということは「唐史」に明白に記録されている。 | 」 |
『三国遺事』は実際、歴史とは異なった伝説も含められており、当時の宮闕跡をもって分析してみた結果としては3千名にもなる人員を収容することができないという指摘もある。その後、高麗時代に「落花岩」という名が出てきて、安鼎福の『東史綱目』巻2で「諸姫」と表現した[2]。「3千」という数を対象にした初めての言及は朝鮮初の金訢(김흔; キム フン、1448年 - ?)が、「落花岩」という詩で「三千の歌舞 砂に身をまかせて/花散り玉砕けるごとく水に随って行ってしまった(三千歌舞委沙塵/紅殘玉碎隨水逝)」と詠んだのが最初だった[3]。以後、尹昇漢(ユン スンハン)の小説『金庾信』(野談社、1941年)で「3千宮女」との言葉を直接的に使用し、李弘稙(イ ホンジク)が書いた『国史大事典』(知文閣、1962年)の「落花岩」の項目で公的に書かれるようになった[2]。結局、近代以前に「三千宮女」を記録した歴史書は存在しない訳である。
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