美作後藤氏
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美作後藤氏(みまさかごとうし)は、美作国の戦国大名。利仁流の播磨後藤氏の系統という。ただし家系図は同じ魚名流の一派である秀郷流の末裔となっている。
美作後藤氏の初見は観応元年(1350年)の山名義理における書状から見られる。その書状によると、後藤下野守が塩湯郷地頭職を推挙されるという記述である。これ以後、康季・良貞が地頭職を受け継いだ。
居城は三星城である。滅亡するまでの200年間を守り続けてきたという。
明応7年(1498年)、後藤康秀は美作中央部に勢力を誇る美作立石氏を攻めるも美和山城主・立石景泰(美作立石氏27代当主)に撃退され、討死した。
その子・勝政は父の恨みを晴らすため機会を窺った。そして、立石景泰が病没し、その子・立石久朝が立石家28代を跡を継いだ文亀2年(1502年)に再度美和山城を攻め、これを落城させた。こうして立石氏を滅ぼし、東作州に覇を唱え、確立した。
勝政の孫・勝基の代では全盛期を迎え、安東氏を初め、江見・水島・小坂田ら近隣の在地土豪をその支配下に組み入れ、赤松氏の一族・豊福氏の勢力を東作州から一掃した。勝基ははじめは尼子氏に味方していたが、勢力が衰退すると、備前の浦上宗景に寝返り、浦上氏を後ろ盾として勝基は完全に東作州を掌握した。
勝元は家督を嫡男・後藤元政に譲ったが、後見する形で勢力を伸ばした。しかし、天正7年(1579年)、浦上宗景を備前天神山城に滅ぼした宇喜多直家は、美作を制覇するために出兵した。同年3月ごろから三星城攻撃がはじまり、5月落城し美作後藤氏は滅亡した。勝基は自害。子・元政は落ちのびたとも、城で討ち取られたなど諸説ある。
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