細川政春

室町時代後期から戦国時代の武将。備中守護。細川野州家4代。安房守、民部少輔、贈従四位下。 ウィキペディアから

細川 政春(ほそかわ まさはる)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将備中国守護細川野州家4代当主。

概要 凡例細川政春, 時代 ...
 
細川政春
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 享徳5年(1456年
死没 永正15年1月9日1518年2月18日
別名 東川寺先翁道月(法号)
戒名 道亘
官位 安房守民部少輔従四位下
幕府 室町幕府 備中守護
氏族 細川野州家
父母 父:細川教春、母:徳大寺公有
兄弟 勝之政春春倶兼子二条政嗣正室)、女子(日野政資室)、女子
高国晴国畠山尚順[1]能登畠山氏[2]
養子:東漸寺[3]
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兄の勝之と子の高国細川京兆家に養子入りし、高国は京兆家当主になった。また、甥の尹賢細川典厩家当主、高基和泉守護となっている。なお、政春を和泉守護であると見る向きもあったが、昨今ではそのように見ない向きの方が強い[4]

生涯

享徳5年(1456年)、細川教春の子として誕生。「政」の字は、将軍・足利義政から偏の授与を受けたものである。

野州家は細川淡路家細川天竺家と共に奉公衆の一番に属す家であった[5]。政春の祖父持春などは足利義教の側近くにあり、嘉吉の乱で片腕を失っている。一方でまた、勝之高国の例からうかがえるように、京兆家とも密接な関係があった。

以上のような関係のなか、明応の政変1493年)にあって政春はすぐさま足利義材(義稙)の陣を離れて、京兆家当主政元のもとに駆けつけている。以降は典厩家の政賢と共に政元を助け、義材を擁する朝倉貞景が南下する[6]と安富某・長塩備前守らと出陣し、後には畠山尚順に与同する大和国筒井氏らと戦っている。

なお、通説では、高国は政元の養子としてそのまま後継者争いに加わったとされているが、明応6年(1497年)以降に政春から高国に家督が譲られて野州家に戻った形跡がある[7](政春には当時高国以外の男子はいなかった)。その後、高国が後継者争いに加わるとこれに従い、永正5年(1508年)に高国は京兆家当主の澄元が追って当主となっている。

政春は高国以外に子供がいない上に、永正12年(1515年)に備中守護を継いでいた弟の春俱の系統が断絶すると、高国によって政春が備中守護に任じられたこと(以後、野州家は政春の官途名から房州家とも呼ばれた)でその後継問題が危惧されたが、永正13年(1516年)8月になって男子(晴国)が誕生したことで[8]、問題は解消された[9]

永正14年(1517年)8月頃より、政春は体調を崩し、翌永正15年(1518年)1月9日に死去した[9]。享年63。

系譜

脚注

関連項目

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