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敵の砦、城、城壁都市を奪取するための戦闘 ウィキペディアから
攻城戦(こうじょせん、英: siege)とは、敵の砦、城、城壁都市を奪取するための戦闘のことである。相手を飢えさせる戦法であるため兵糧攻めともいう。また、守る側(防塞・塁塞)から見た戦闘を蘢城戦(または篭城戦、ろうじょうせん)と呼ぶ。
古代から近世初期にいたるまで、野戦と並ぶ2大戦闘形態の1つであった。
城塞の技術は、15-16世紀の火薬、大砲、銃の活躍によって大きく変化しており、この後の要塞を攻める行為も類似の戦闘ではあるが相違点も多い。従って、本項ではそれ以前の攻城戦を中心に記述し、一部関連を説明するものの16世紀以降の防衛拠点攻囲戦は市街戦にて記述する。
現代の戦争では兵器の攻撃力と通信技術が発達しているため大軍が建物に籠城し、そこを攻める攻城戦に至ることは稀であるが、装備品の有無や城の定義(城参照)によっては現代でも攻城戦は起きえる。
『孫子』では、防御に徹する守備側を攻略することは容易ではなく、攻城は下策で最も避けるべきと述べられている。
古典的な戦記などでは会戦が多く描かれるが、実際の戦争は「小競り合い」と「攻城戦」がほとんどを占めたといえる[要出典]。城内の防御側勢力が長期に渡り守勢に徹して攻撃側と対峙し続けることは「篭城」と呼ばれ、城が攻撃側の侵入を阻止し切れずにその支配権を明け渡すことは「落城」、「陥落」と呼ばれる。
攻城戦には通常、次のような目的がある。
籠城側の目的は当然上記の目的の阻止となるが、他に籠城戦を選択する目的としては次のようなものがある。なお、積極的な戦略としてではなく、野戦での敗戦や電撃的な奇襲などにより籠城戦を余儀なくされるケースもある。
短期戦と長期戦に分けられ、これは準備や装備が異なるため区別される。
相手の数倍の戦力をもって、城を包囲し外界との接触を遮断する。これにより水や食料、その他の備蓄軍需物資の枯渇を図ると共に、情報を遮断することにより正確な状況判断を困難にさせ、絶望感を与え士気の低下を期待する。河川をせき止める「水攻め」、補給を絶つことにより生活をままならなくする「兵糧攻め」などの手法もある[注 2]。
攻撃側の損耗は最小で済み、ほぼ確実に落とせる戦法であるが、なんといっても長期戦になり、篭城側と同様に攻城側も食料補給が求められ、兵士の士気の維持や伝染病の発生にも留意する必要がある。攻撃側は城内からの奇襲という戦闘前面への備えだけでなく、敵軍に援軍があれば襲撃や逆に包囲されたりもするので、周囲警戒など背後への備えも求められる。千早城の戦いや独ソ戦(第二次世界大戦)におけるレニングラード包囲戦のように、戦局全体の変動により包囲を解かざるを得なくなる事態も発生しうる。また包囲といっても戦力の制限や地形的条件によっては完全に行うことは難しく、レニングラード包囲戦では命の道と呼ばれる氷上の補給路を使ってわずかに補給を保つことができた。
一般に、飲料水の確保や食料などの備蓄量によって守備側の篭城可能な期間が決まる[注 3]。守備側に豊富な食糧が蓄えられていると落城は容易ではないので、事前に商人を城周辺に遣わして米穀類を買い占めさせたり、付近の農民等に乱暴狼藉等を行い城内に追い込む事も行なわれた。篭城戦では戦闘による死傷者や破壊は避けられるが、守備側では、通常の戦闘では死ぬ事の無い子供や老人など多数の餓死者を出し、死人の肉を喰らうなど悲惨な状況が生じることがあり、その面では人道的な戦法ではない。
大規模な包囲戦はガリア戦争におけるアレシアの戦い、1885年のスーダンのハルツーム包囲戦が代表的である。日本では「兵糧攻め」と呼ぶことが多い。豊臣秀吉が得意とし、三木合戦、鳥取城の戦い、備中高松城の戦い、小田原征伐などで行った。特に兵糧が早々に尽きた鳥取城の戦いは鳥取城の飢え殺しとして400年以上経った今でも語り継がれるほど悲惨な状況に陥った。
近代以降では、軍用機やミサイルの発達により、包囲で籠城側の逃げ道を断った上で、空襲などにより逃げ場のない籠城側に一方的に損害を与えることもある。最近の例としては、市街地を土堤で封鎖した上で空爆を加えたファルージャの戦闘などがある。
適当な条件を示したり、脅したりしながら、開城の条件を交渉する。互いの状況は正確には判らないために駆け引きがあり、守備側にとっては早く開城すれば寛大な措置を受け、最後まで抵抗すれば略奪や虐殺されるという囚人のジレンマを感じることになる。日本では「調略」とも言う。
中世から近世の欧州では、武装解除なしで退去・明け渡しの慣習があり、将の名誉とされた。これはキリスト教の下に「誓い」が重視された文化で発生し得た合意である。予め一定期間内に援軍が来ない場合、開城して良いと領主から指示があることも多かった。
城壁をよじ登る、梯子、雲梯をかける、攻城塔で接近するなどして城内に入りこみ、守備塔を占拠したり城門を開くことを試みる。
攻城側の兵士が城内に侵入できても、守備兵の錬度や士気が高い場合や、城内部にさらに守備の工夫(通路の複雑化など)が施されている場合、攻城側の損害は大きくなる。コンスタンティノープル攻略、山中城攻城など。
城は城壁や堀を備え、城への侵入を困難にしている。そのため、攻撃側は強攻に先立だって、敵城の堀を埋め、城壁や城門に突破口を作り、主軍の進入路の確保する必要がある。
防備の人員を殺傷して減らすことで城の防御力の低下を図る。
利で誘ったり、真偽を問わず「当てにしている援軍は来ない」の情報を流すなどして内部での対立を発生させ、それを利用して敵兵に内応させる。 仮に内応に至らなくとも、敵兵の戦意を低下させる効果が狙える。
城が防御準備をしていない段階で素早く攻撃し城内に入り込む。特に中世欧州の城や城壁都市は平時に多くの人の出入りがあるため奇襲は有効だった。
抜け道を通り城外へと少数精鋭で出兵し、攻城側の背後や側面を衝く、あるいは逃亡して城から遠くへと引き付けて撹乱するなど陽動し、城内本隊と呼応して攻城側の退路を絶ち挟撃する。
攻城側を撃破するか撤退させられる有力な味方の救援軍を呼ぶ。
城は城壁や堀を備え、城への侵入を困難にしている。そのため、攻撃側は強襲に先立だって、敵城の堀を埋め、城壁や城門に突破口を作り、また防備の人員を殺傷して減らすことで城の防御力の低下と主軍の進入路の確保を目的とするのである。
中世欧州では、大規模な軍隊の移動時に兵站の確保が充分に行なわれることは少なかったので、攻城側は城の周囲に留まって作戦を行なえる期間が短かった[2]。防衛側も、余剰人員を外に出して、食料の減りを抑制する策を行うことがあった[3]。
攻城戦や狭義の「兵糧攻め」ではないが、近代戦においては、第二次世界大戦中の拉孟・騰越包囲戦、バルジの戦いでのバストーニュ包囲戦、インパール作戦でのコヒマ包囲戦がそれに近い。例に挙げた内、攻囲側が勝利したのはハルトゥーム包囲戦と拉孟・騰越包囲戦である。コヒマ包囲戦の日本陸軍はイギリス軍の空輸作戦の前に屈し、やがてインパール作戦の破滅的な瓦解へと繋がった。レバノン内戦では、「キャンプ戦争」と呼ばれるシリア軍によるPLO系パレスチナ難民に対する包囲戦が行われた。これはシリア軍が難民キャンプを包囲して水・食料の供給を遮断した上に、難民達が使用する井戸周辺に狙撃ポイントを設定(井戸を使用する人間を無差別に狙撃)したため、難民側に多数の犠牲者が発生した。
2024年、南アフリカ当局は、廃鉱になった金鉱山における違法採掘者の摘発に着手。鉱山の出入口を規制して水と食料の供給の搬入を不可能とし、坑内に立てこもる最大4000人に対し兵糧攻めを行った[4]。
日本において、凱旋と出陣時に、勝ち栗、打ちアワビ、昆布を(敵に打ち勝ち、よろこぶ)にかけて儀式と共に食べられた。
城の敷地内に、食料や燃料となる食物を育てる例が見られる。柿は干し柿にして保存された。栗は勝ち栗ともなり、保存も出来たことから保管された。松は燃料となり、非常食の松皮餅ともなった。梅は食料保存や傷の消毒ともなり奨励された。徳川家康は駿府城に食料となるようにミカンを植えた。
また、長期間の籠城戦に備え、熊本城では、庭に銀杏、畳に芋茎、壁に干瓢、堀に蓮根が備えられていた。他に食べられた食料として米は乾燥させ干飯や、味噌などがあげられ、さらに色んな食材を組み合わせた兵糧丸が作られた。
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