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日本の歌人 (1901-1930) ウィキペディアから
稲森 宗太郎(いなもり そうたろう、1901年〈明治34年〉7月12日 - 1930年〈昭和5年〉4月15日)は、三重県名張市出身の歌人。
1901年(明治34年)に、三重県名張市本町の煙草元売捌商・稲森惣兵衛の長男として生れた。三重県立第一中学校(現・三重県立津高等学校)を卒業し、1921年(大正10年)、20歳の時、第一早稲田高等学院政治経済学科入学。学院時代から歌人・窪田空穂教授に師事。和歌を作り始めた[1]。早稲田同人誌『自画像』に和歌や小説を発表し、島村民蔵主催の演劇研究会に参加するなど活躍し、その機関誌に戯曲も寄稿していた[1]。
早稲田大学国文学科に進んだ宗太郎は、三重県立第一中学校時代の2年先輩の中谷孝雄と、中谷の友人・梶井基次郎からの誘いで、彼らと一緒に同人誌『青空』の創刊メンバーとなった[1][2]。しかし宗太郎は、健康上の理由もあり、短歌一筋に生きることに決めて1号だけで脱退した[3][2]。
宗太郎は、窪田空穂を通じて知り合った尾崎一雄・山崎剛平ら8人で「八ツ手」という短歌会を結成し、同人誌『茜ぞめ』を創刊した。1928年(昭和3年)3月に早稲田大学国文学科を卒業。この卒業の秋、肺尖(はいせん)カタルと診断されたが、実際は結核であった。
『茜ぞめ』の廃刊後は『地上』に加わり、作品発表を続けるが、1930年(昭和5年)の春ごろ、病状が急に悪化して咽喉もつぶれてしまう。同年4月15日、高田馬場の家で師の窪田空穂、妻・美津子に看取られて死去(28歳没)。法名「国学院硯誉宗泉居士」。同年に刊行した歌集『水枕』を残した[2]。
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