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日本の安土桃山時代~江戸時代前期の武将・僧。近江佐和山城主石田三成(豊臣政権五奉行の一人)長男で、京都妙心寺塔頭寿聖院3世住持 ウィキペディアから
石田 重家(いしだ しげいえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての人物。石田三成の嫡男。関ヶ原の戦いの後に出家し、臨済宗の僧としての名は済院宗享。
石田三成の嫡男として誕生。生年は不詳だが、渡辺世祐は関ヶ原の戦いのときに12、13歳としていて[4][6]、であるならば生年は天正16年(1588年)前後で、谷徹也は『兼見卿記』の天正14年(1586年)2月5日条に石田佐吉(三成)の女房が3月に出産予定であるため安産祈願の依頼を受けたという記事があるのに注目し、これが重家のことならば、生年は天正14年であった可能性が高いとする[7]。ただしどちらも弟の可能性があり、白川亨は弟との混同を主張していて[8]、自著に生年の想定を記してないが、享年103としているので天正12年(1584年)となる[9]。
慶長4年(1599年)閏3月、父・三成が加藤清正ら七将に襲撃されて引退を余儀なくされた後に、「やがて奉行として取り立てる」との約定により[8]、代わって大坂城の豊臣秀頼の下に出仕し、徳川家康からもかわいがられたという[11]。
慶長5年(1600年)、重家は後見役の大谷吉継と共に、上杉討伐に出陣する徳川家康の下へ参陣するように、父に命じられていた[12]。
この後、関ヶ原の役が勃発したために果たせずに、毛利輝元・増田長盛・長束正家らの嫡子※[13]と同じく豊臣家に対する人質として大坂城に留め置かれたとする話と[12]、嫡子・重家は会津征伐に同行するために佐和山城に帰って兵備を整えていたが、戦役勃発により一族郎党とそのまま佐和山城の守備についたという話[8]の2説がある。
前述の2説により、関ヶ原における西軍大敗の知らせが届くと、9月17または19日夜に乳母やその父津山甚内に託されて、密かに大坂城の脱出[14]とするものと佐和山城から落城前に脱出したとするもの[8]の細部が異なる話があるが、場所以外の部分は大筋で同じである。
その後、京都妙心寺の塔頭壽聖院に入って、住職の伯蒲慧稜(伯蒲恵稜とも)によって剃髪して仏門に入れられた[4]。伯蒲は法号として宗享の名を与えた。済院は字[4]。
伯蒲は、京都所司代奥平信昌を通じて助命を嘆願し、家康は本多正信と協議して、重家がまだ10代前半と若かったことからこれを許した。元和9年(1623年)、宗享は仏戒を修めて、雲屋祖泰(雲屋宗春)より寿聖院を三世として受け継ぐが、そもそも寿聖院は三成が実父正継のために伯蒲を招いて開基した寺である[15]。
また、のちに春日局の側近として大奥で仕えることになる祖心尼に禅を教授したともいわれている。
貞享3年(1686年)閏3月8日に死去[1]。享年は99か101になるが、生年には前述のほかにも異説が多くあり、正確な年齢はよくわからない。
また重家の直系子孫を名乗る石田秀雄によると3代目直重の代に越後高田松平家に仕官したがその次の代からは庄屋になり現在まで男系で繋いでいるというが[2]、それを示す史料は戦争で燃えたという[16]。
異説としては大坂城より脱して、津軽国に行ったというものや[17]、妙心寺ではなく高野山に逃れたというものがいくつかあり、『 豊内記』では高野山に逃れた後に殺されたとしている[18]。また別に、晩年の重家は仏門から還俗して和泉国岸和田藩の藩主・岡部宣勝の庇護を受けながら、岸和田で死去したという説もある[1]。
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