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吉井藩(よしいはん)は、上野国多胡郡吉井村(現在の群馬県高崎市吉井町吉井)を居所とした藩。徳川家康の関東入国以来、譜代大名である菅沼家・堀田家の藩が断続的に存在したが、1709年に鷹司松平家が入封し、10代続いて幕末を迎えた。鷹司松平家は当初矢田村(現在の高崎市吉井町矢田)に陣屋を置いたため、矢田藩(やたはん[注釈 1])とも呼ばれる。鷹司松平家は五摂家の一つ・鷹司家の流れを汲む家であり、江戸幕府の下では1万石の小藩主ながら高い家格を有した。明治初年に藩主家は家名を「吉井」に改め、1869年に自ら廃藩した。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、関東に入部した徳川家康は、菅沼定利(田峯菅沼家)に上野国多胡郡一円などで2万石を与えた[4]。定利は吉井の地に築城して[5][6]居所とした[4][7]。これにより吉井藩が立藩したと見なされる[4]。定利は新たに町割り(城下町整備)を行い、矢田村などから住民を移住させた[5][6]。
定利は天正20年(1592年)に領内で検地を行い、さらに六斎市を開いて町割りを行うなどして藩政の基盤を固めた。
関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)、定利は菩提寺として玄太寺を建立している。関ヶ原では徳川秀忠軍に従軍して真田昌幸と戦った。
定利は慶長7年(1602年)10月22日に死去し[7]、跡を養嗣子の忠政が継いだ[8]。忠政は家康の娘婿・奥平信昌の三男で、生母が家康の娘・亀姫であった[8]ことから、松平姓を名乗ることを許された[8]。
『寛政譜』の奥平家の譜によれば、慶長6年(1601年)[8]、忠政は実父の奥平信昌(美濃加納藩10万石)から4万石を分与され[9]、慶長7年(1602年)に信昌が隠居すると、忠政が加納城本丸に住して6万石を領し、信昌は二の丸に住んで4万石を領したという[8][注釈 3]。『寛政譜』の菅沼家の譜によれば、忠政は養父の遺跡を継いで「のちに」美濃加納藩の城に入り、のちに加増を受けて10万石となった[8][10]。忠政が美濃加納に移ったことにより吉井藩は廃藩[4]、吉井城は廃城となった[4]。
天和2年(1682年)3月29日、大番頭を務める堀田正休が上野国多胡・緑野・甘楽の各郡および武蔵国埼玉郡の2国4郡内で1万石を与えられ[4]、吉井藩を再立藩した[4]。元禄11年(1698年)3月7日、正休は近江宮川藩に移され、吉井藩は廃藩となった[4]。
最後の藩主家となった松平家(鷹司松平家)は、五摂家の一つ鷹司家から分かれており、鷹司信平(信清の祖父)が徳川家光の御台所・鷹司孝子の弟という縁で江戸に入ったことから始まった。信平は承応3年(1654年)3月10日、松平姓を与えられて松平信平と名乗った。その後、嫡男の信政、その子の信清に家督が継がれ、信清の時代に1万石の大名となった。最小藩ながらその待遇は国主格、あるいは御三家と同様に遇されていた。歴代当主は従四位下 侍従に就くことを慣例とした。これは津藩・藤堂家や土佐藩・山内家などの国持大名と同等の官位 官職である。
延宝2年(1674年)、松平信平は上野・上総両国内において7000石の知行を与えられた。信平は当初、知行地を管轄する陣屋を木部村(現在の高崎市木部町)に置いたが[12]、延宝7年(1679年)に矢田村(現在の高崎市吉井町矢田)に移転した[12]。陣屋は貞享3年(1686年)に一旦木部村に戻されるが、元禄元年(1688年)に再度矢田村に移転した[12]。
宝永6年(1709年)4月6日、松平信清は上野国内において3000石を加増されて1万石の大名となった[4]。これにより、吉井藩が再立藩された、あるいは矢田藩が立藩したとされる。
宝暦2年(1752年)[5]、2代藩主・松平信友は、吉井村に陣屋を造営し、居所を移した[4][5][11]。ただし、陣屋の呼称は変わらず「矢田陣屋」であったという[2]。
第5代藩主・信成の頃から財政難が始まる。信成は寛政9年(1797年)に倹約令を出したが、効果はなかった。第7代藩主・信敬も倹約令などを出して財政再建を主とした藩政改革を行ったが、やはり効果はほとんど無かった。
第9代藩主・信発は安政6年(1859年)、常陸水戸藩主・徳川斉昭蟄居の命を伝える上使を務めた功績から、莫大な恩賞を授かっている。藩政においても農民兵を採用した軍制改革を行っている。元治元年(1864年)、吉井村の「矢田陣屋」の名を正式に「吉井陣屋」に改めた[2]。下仁田街道の宿駅でもある吉井は、元治元年(1864年)に天狗党が通過、慶応4年(1868年)には世直し一揆勢が侵入するなど、情勢に翻弄された[4]。
最後の藩主・信謹は慶応4年(1868年)2月22日、徳川家との訣別を表すため、松平姓を捨てて吉井姓に改めている[4]。その後、戊辰戦争では新政府側に与して会津藩攻めに従い、三国峠・戸倉方面に出兵した(三国峠の戦い参照)[4]。
明治2年(1869年)の版籍奉還は上野国の諸藩に先駆けて行い、信謹は知藩事となる。同年12月25日、信謹は知藩事を辞し、吉井藩は廃藩となり、岩鼻県に編入された[4]。その後、吉井の地は群馬県、熊谷県を経て、群馬県に最終的には編入された[5]。
藩主は定府であった[13]。慶応年間の家臣団は104人で、このうち江戸詰が88人、国元詰が16人であった[4]。国元(吉井陣屋)には代官2人・手代以下14人が詰め、藩領の統治に当たっていた[4]。
吉井藩の代官としては、
2万石。譜代。
1万石。譜代。
1万石。親藩。
「旧高旧領取調帳」では、上野分はすでに岩鼻県の管轄となっているが、ここでは「角川日本地名大辞典」(10・群馬県)の記述によった。
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